episode6.福音
2人の生徒の死を弔うかのように学院には黒が敷かれ多くの生徒が悲しみに身を沈めた。あれから1ヶ月が経ち、青緑が茂っていた学院の木々はその彩りを赤や黄色へ変えてしまった。
つい先日までオレンジ色に不気味な顔を描いた南瓜が至る所に飾られ初等部の生徒たちがシーツをかぶりお菓子を貰いに回っていたのが懐かしい。それすらもまるで蚊帳の外にいるかのようで、ずっと透明な思考のままただ二酸化炭素を吐き出していた。その手に握られたシドのロザリオがやけに重い。
「トニー、こんな所で何しているの?」
メインストリートに備えられたベンチに力なく腰掛けていたトニーに後ろから音も立てずに現れたキャロルが声をかけた。彼の後ろには高く昇った太陽があり、逆光でそのシルエットだけが目に映る。
あの事件以来生徒会は1ヶ月間、とても忙しく働いていた。それは部外者であるトニーが傍から見ても分かるほどで生徒たちの混乱を収めようと彼なりに努力していたみたいだ。こんな風に見回りを強化するといってよく生徒会の生徒が学院中を歩いている姿が見える。今キャロルがこの場にいるのもその見回りの一環だろう。
「少し考え事をしてたんです」
それは嘘だった。空っぽになった頭でぼうっと高くなった空を見上げていただけだが、優しい彼のことだからそんなふうに正直に話せば心配してしまうことは目に見えている。これ以上誰かに余計な世話をかけたくない。
「そっか、そうだよね」
何かを噛み締めるようにキャロルはそれを聞いて何度も首を上下に動かした。
「考えないといけないことは、山ほどあるから、ね……」
キャロルの表情は太陽の影でよく見えないがその視線は少し斜め下に向けられた気がする。いきなり強い風が吹いて、木の葉が彼の頭上を舞った。やけに冷たくなってきた空気があの暖かい日常を吹き飛ばしてしまうかのような。嫌な予感がまた胸を焦がす。
「近々また皆を集めようと思ってるんだ。あんなことが起こった後だけどまだ真犯人は捕まっていないから」
あぁ、やっぱり此処は____。
トニーはぎゅっと彼のロザリオを握り直した。
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「この部屋は何に使われていたものか詳しく分かっているの?」
机の上に溜まった埃を人差し指で救うようにしてディオネはその視線を眼前の白銀の持ち主へと送った。その部屋には埃がカーテンから差し込んだ太陽によって光り輝いて舞っている。指にとった埃を蝋燭の炎を消すようにディオネはふっと飛ばした。
「さあ?上級司祭のものだったんじゃないかと思うが、ここに残っているのは汚れたアンティークと本だけだったからね。流石の僕もこれ以上は分からないな」
乾いた笑いでハロルドはディオネにそう返した。そう問いただした筈のディオネはその言葉に興味を示さず、部屋の様子にその視線をゆっくりと動かしているだけだ。彼女の態度に痺れを切らしハロルドは机に置かれていたはずのチェスの駒を手に取る。
「あぁ、でもこの部屋の持ち主はどうやらチェスが好きだったようだよ」
君の弟と同じだ、と彼は付け加え黒のナイトの駒をディオネに見せつけるようにくるくると回した。
「そう……チェスが好きだったのね。じゃあ今もどこかでチェスをしているのかもしれないわね」
弟という単語に反応したディオネはハロルドの言葉を反芻しこの部屋の元の主のことを目を閉じ頭に思い描く。
この部屋を見つけて部屋の隅に転がるように落ちていたこの黒のナイトを拾ったのはハロルドだった。それから、他の駒やチェス盤はないかと探したがそれらが出てくることは無かった。何の変哲もないただの黒のナイトはここに1人置いていかれたのだ。
「……その通りだな」
ハロルドはディオネの言葉に小さく相槌を返す。
一つだけ。この部屋にあったのは黒のナイトが一つだけだ。もしこの部屋の持ち主がそれ以外の全てを持ってこの部屋から出ていったなら彼はきっと新しいチェス駒を用意しなければならないだろう。
一つだけ残されたチェス駒を見つけた時、酷く落ち込んだ。たかが駒一つ彼はきっと新しいものに変えているのだろう。ハロルドにとってそれはとても残酷なことのように思えた。記憶の片隅に置いていかれ、のちに忘れられてしまえばそこには何も無いのと同じだ。実際にそこにあろうとなかろうと、覚えていないなら。覚えられていないならそこにはあってもなくても変わらない。何れは、自分も。
「あら、ハロルドさんは不服みたいね。大丈夫よ、誰も忘れたりなんてしないから。」
ね、と小さな子供をあやすようにディオネはゆっくりとした足取りでハロルドに歩み寄る。顔に出したつもりはなかったが、何処か悲しそうなハロルドにディオネは違和感を感じたのかもしれない。ディオネの醸し出す空気感に絆されてハロルドの調子が狂わされたのかも。またはその両方。
「簡単に言ってのけるな、レディは。忘れない事なんてないさ、人は忘れるものだから。覚えていようと思ったことも水のように掌をすり抜けていくんだ」
そう言ってハロルドは自身の髪色と同じリボンを悲しげに指先で触れた。彼の眉はいつになく下げられ、その目には悲哀が滲んでいる。それでも、彼は貼り付けたように口角を無理やり上げて笑ってみせる。
「じゃあ小瓶にでも詰めようかしら。ハロルドさんは忘れられるのが嫌みたいだから。ずっと綺麗に磨いて大切にしまっておくわ」
何がおかしかったのか記憶を小瓶に詰められるわけもないのにディオネは自分の言葉にくすくすと飴玉のような甘い笑いを零す。それはハロルドの胸の内には甘すぎて、噎せ返るようなむず痒さだった。彼女のこういった所がたまらなく愛おしく感じるのに、胸の奥でそわそわと何かが主張する。それがなんなのか、思い出せたとしてもハロルドにとっては最早無意味な事だ。それは彼が誰よりも理解している。
「ねぇ、ここは少し埃臭くて嫌だわ。一緒に天文塔に行きましょうよ、夜には星が綺麗に見えるけど今の時間は太陽が当たって気持ちいいのよ」
ディオネはハロルドの手を取り、少し強引に部屋の扉へと向かう素振りを見せる。その表情は楽しそうでその手は肌寒い秋だというのに暖かい。
思い出せたところで、なんの意味もない。
忘れられたところで、忘れられなかったとして。そこに自分がいないなら悲しむことも無い。
刹那に生きると決めたなら、彼女の手をとるべきではなかった。
その手を握れば、身の程知らずにも思い違いをしてしまうだろう。
でも、彼女は僕の手をとるから、光に照らされた彼女を僕が忘れなければいいのだ。
それでも僕はその瞬間だけを切り取って彼女を脳裏に焼き付けた。
_________________
生徒会室の窓からは木々の彩りが赤から黄色へと移り変わっていく様がみてとれる。生徒会室に人が逼迫する様子も久方ぶりだろう。ひと月ほど前、あの事件を境にそれぞれの思いは交差し集まって黒幕を探すことはなかった。
その状況に待ったを掛けたのはキャロルやマシューといった生徒会の人間であり彼らは再び聖痕者をこの生徒会室に集めたのだった。
「こうして集まるのも久しぶりだな。もっと早くこうしていられたら良かったんだがこっちも復活祭で忙しくてね」
マシューはそういうと、生徒会室の机に積み上げられたハロウィンの飾りをちらりと見やった。その隣の机は跡形もなかったように綺麗に整えられている。その所有者だった彼女の爪痕すらどこにも残っていない。
「なあ、リュンは結局どうなったんだよ。あの後からシスターも、誰も、何も言わないままだ。」
マシューの視線を辿ったのか、ふとブレットは何時になく真剣な表情でマシューやキャロルをその目で捉える。彼の瞳は色素の薄いヴァーミリオンが美しかったが、やけにその瞳が暗い気がした。
「……まさか、学院を出たのか?」
その顔は酷く歪められている。ブレットは自分で言ったその言葉に信じられないといった様子でわなわなと拳を震わせた。
でなければ、リュンはどこに行ったというのだろう。
そういった面持ちの生徒たちは、未だにリュン・フィーという生徒の最後がどのようなものであったか知らない。到底言葉で知ったところで想像できることでも無い。
「出られないワ、この学院からはどんな理由であっても出られないノ。途中退学制度なんてものは存在しないノヨ」
それくらいアナタでも知っているでショウ?とラムダはその言葉に付け足した。ブレットの隣に眠そうに立っていた彼女だが彼の言葉に口を挟まずにいられなかったのだろう。酷く哀しそうに彼女はブレットに視線を移した後に窓の外を見つめた。
学院を出ることは出来ない。
その言葉にブレットは一層その顔を歪ませる。そして彼と、彼女もその言葉に顔を暗くさせ下を俯く。いくらかの人間にそれはとても壮大な傷を負わせたようだった。
リュンのその後について、誰も口を開かない中、生徒会室はしんとした重い空気に包まれる。リュンの机は綺麗に整理整頓され、今は何も物が残っていない。あれだけ、物が渋滞していたのに。その痕跡は何も残っていない。
「……黙っていたこと、先に謝るよ。」
ブレットは後方でそう声が上がったことに驚き直ぐに振り向いた。その先には両腕で肩を抱き決まりが悪そうに眉にシワを寄せているマルセルがいる。
彼は何かを言い淀んでいるようでこの中の生徒誰一人と目も合わすことも出来ずにただ口だけを動かした。平常の彼とは打って変わり、様子に覇気が見られない。
「リュンは、もう何処にもいないよ。彼女はあの後、その罪を裁かれたから」
ひゅっと誰かが息を呑む音がする。一瞬の緊張を潜り抜けて誰かが後ずさりした。
「罪を、裁く……?」
誰がそう口にしたのか。リュンがここにいない、とは。罪を裁くとは何を意味するのか。
直ぐに理解することが出来ないのだと心臓が胸を打つ。
緊迫した空気の中でマルセルは静かに息を吐いた。
「死んだんだ」
死の連鎖がそこには確かに敷かれている。春が過ぎ夏が過ぎ、秋が終わりを告げようとしていた。レールを進むそれを止めることは出来ない気がする。
そんな、気がする。
「死んだ、って?シスターが言ってただろ!アタシたちと変わらない生活送ってもらうって」
エイダは信じられないとマルセルの言葉に声を上げる。
誰も踏み入れることの出来ない地下室へ、黒いベールの女に腕を引かれリュンはその先へと向かっていた。あの時、彼女は振り向いて、あの事件のシスターを殺したのは自分じゃないと口を開いたではないか。それを目に焼き付けただろう。心臓を穿つ槍が抜けない。
トニーは声を出すことさえ出来なかった。
目にみえるその異常さに唇が震える。
「目には目を、歯には歯を。死には死を。……随分物騒な思考だね。それを考えたのは、司祭様達か?」
部屋の家主かというように、堂々と生徒会室のソファに足を組み肘掛に頬杖をついていたハロルドが目を伏せ言った。彼の声は低く、生徒の死をいとも簡単に与えてしまう学院の異常性に怒りを抱いているようにも感じる。
「……神のほかに誰かが誰かを裁くなんて、あってはならないことでしょう」
ハロルドの言葉を聞き、テティスは悲しげにその瞼を閉じた。神は人間の罪を裁くものだ。それ以外の何人たりとも人を裁くことは許されない。人を裁くのは神だ。
「その神の声が聞こえたとでもいうんじゃないか?実際に、リュンはもうこの場にはいないんだから」
ハロルドはテティスが放った言葉を鼻で笑い飛ばし、両手を上げ眉を下げる。
神以外が、誰かを裁くとしたら。それは法に他ならない。だが誰が学院内で殺人が行われたことに予め処罰を決めておけただろう。
片付けられた彼女の机には何も残っていない。
「……どうして、マルセルさんがそれを知っていたんですか?」
恐る恐る相手の顔色を伺ようにドロシーは彼女の左隣にいるマルセルに顔を向ける。そう投げかけられたマルセルは一瞬だけ顔色をくぐ漏らせた後に独りごちるように乾ききった笑みをみせた。
「あぁ、他にも何人かの生徒は知っていたよ。事前にシスターから知らされていたから。誰も口を割らないようだったから俺が言ったんだ」
マルセルは以前からシスターひいては大人たちからの信頼が厚い。こういった情報が常にシスターや司祭の口から直接話されることはなく生徒を介して伝えられるのは何故なのだろうか。
あの日以来、主席司祭様にこの場のほとんどの生徒がお目通りすることは叶っていない。彼の言葉を聞いたドロシーは何かを思案するように押し黙った。
「……マルセルの言う通りなんだ。僕とマシューは既にその事を知っていた。いつ言い出そうかと思っていたんだけど、マルセルには申し訳ないこと言わせちゃったね」
情けないよ、とキャロルは自身の首に手を当てる。それは彼の癖なのだろうか、困ったように笑う彼の表情は暗い。
誰もがその死を容易に受け入れられている訳では無い。全てとは言わないが顔も声も、見知った人間が一度に2人も亡くして平静でいられるほど血が通っていない訳では無い。生徒会室には再びしんとした重い空気が漂う。
一体、この学院で何が起こっているのか。
正常と異常が入り乱れぐちゃぐちゃになってしまっている。
「……どうして、リュンが」
ぼそりとトニーは言葉を漏らす。どうにも出来ない理不尽が自分にだけ降り注いでいるような気がする。救いようのない惨劇は今も記憶に新しい。誰もが悲惨な顔色を浮かべる。
「事件はまだ終わっていませんわ」
悲しげに伏せられていた視線はそう言った青みがかった銀髪の持ち主へと向けられる。彼女は自分を守るように肩を抱き、その日のことを思い浮かべる。完璧な一日を。あの日以来、ここにいるはずの2人の姿は見当たらない。
一番初めのシスターを殺した犯人は未だに見つかっていないこと。なぜ、リュンがシドを殺したのか。カタリナは自身の眉を顰めた。
「リュンさんが犯人だとわかった時、私たちはシスター殺害事件の犯人も彼女なのだと思っていました。これは切り裂き魔の犯行に見せかけた彼女のものだと」
ドロシーは自身の制服に大事にしまわれたメモ帳を取り出すとそのページを雑に捲り上げた。
あの日、シドを殺害したのはリュンであると見破った彼女とハロルドであったがリュンの口からその動悸について語られることはなかった。ただ、彼女は自分の後悔の言葉だけを虚ろ虚ろに呟くだけで、心ここに在らずという具合であった。
「リュンさんとシドさんが学院に来たのは丁度1年前でしたよね。切り裂き魔についてずっと学院にいた私たちより十分理解していたはず……」
「寮内で人影をみたといったのも、リュンさんが流した噂だったのでしょうか?……彼女はずっと切り裂き魔がいるかもしれないという状況を作り出して、後でご自身の犯行も切り裂き魔のせいにするはずだったんでしょうね」
ドロシーは続けてメモ帳に書かれた痕跡を手で辿るようにして続ける。分からないことや、知らないことがあまりに多すぎた。こうして話を聞いていても不明な点はいくつも散りばめられている。
「そうですね、1度は切り裂き魔が本当に犯人なのかもしれないと僕も思いました。学院の中に犯人がいるなんて、考えたくもありませんでしたから……」
ドロシーの言葉に相槌をうつようにテティスはその手を顎にかけ小さく頷く。見知った顔の誰かが犯人だと考えるより、誰も知らない殺人鬼が犯人であれば責め立てることも罪の償い方もいっそ残酷に言い渡せたのに。リュンは何もかもを切り裂き魔という虚偽の犯人像を作り上げそれに押し付けようとしたのだろう。今思えばとても稚拙な犯行だが、着地点を見失いとってつけたようなそれが余計事件を混乱させていたようにも思える。
「どうしてリュンさんが犯行に及んだのか聞こうにも、もう聞けないのですね……。」
ゆっくりとドロシーはそのメモから目を離し、マルセルを見つめた。
彼女は今もリュンとシドのことを頭に思い浮かべているのだろうか。
「リュンは、シスター殺害の犯人を知っていたと思う。真犯人に脅されたと考えた方がいい」
悲しげなドロシーの背中をそっと撫でたマシューが言う。その言葉にマシューと折り合いの悪いカタリナはぴくりと耳を動かしその眼光を鋭く光らせる。
「リュンとシドの事件が、シスターの殺害と関係があるのか!?な、なんでそんなこと言いきれんだ…すか?」
マシューの言葉に驚いたのはカタリナだけでは無い、思わずトニーは前のめりになりながらたどたどしく騒ぎ立てた。2つの事件に何か共通点はあっただろうか。トニーがその時のことを思い出そうとするとずきずきと頭が痛むような気がした。
「そうね、共通点としては2人の死因でしょう?銀製のナイフを心臓に突き刺されていたわね」
トニーの慌てようにじっとりとした視線を向けたあと、カタリナはゆっくりと口を開いた。彼女が優雅なまでにそう語るとマシューもまた彼女に冷たい視線を送る。彼らの仲は犬や猿と変わらない。
「2人に突き刺さっていたナイフは同じ柄のものだった。偶然とは言い難いだろ。それに、あのナイフ……どこかで見たことがあるんだ……」
マシューはそう言うと悩ましげに自身の右手を顎にやり何かを考え込んでいる。
マシューいわく、2人に当てられたあのナイフはどちらも同じ銀細工が施されたナイフのようだ。
「そのナイフをもう一度みれば何か思い出すかもしれねぇですよね!?ナイフは、今どこに!?」
大きな足音を立ててトニーは考え込んだ様子のマシューの肩を強くつかみ揺さぶる。トニーの必死の剣幕に先程からカタリナは呆れ果てて、ゆっくりと息を吐き出した。
いきなりの出来事にマシューは間抜けな声をあげ、抵抗する術もなく戸惑いの表情を浮かべていた。脳がゆさゆさと揺れるのを感じる。
「さあ……使われたナイフがどこに回収されたかまでは」
語尾を濁すようなマシューの言葉にふと、トニーはひとつの疑問を感じる。
何故か、過ぎ去る日が一つ一つあまりにも性急でそんなことすら頭になかった。
本来であれば、それは何よりも大切なはずなのにあまりにもそれ以外のことに気を取られすぎていた。
「そもそも、シドの遺体は、どこに行ったんですか……?」
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「兄さん、あのナイフに見覚えがあるって、詳しく思い出せないの?」
先程まで生徒が集まっていた生徒会室にはロイド兄妹だけが残されていた。マシューが気遣い出した紅茶が飲み干され茶葉がカップに形を残している。
先程まで2人で茶葉占いの本を小さい頃に読んだとかそんな思い出話に花を咲かせていたがドロシーがぴたりと真面目な視線をマシューに向けた。
「……あぁ、何処で見たのか思い出せないんだ。でも、確かにあれは学院のナイフなんだよなあ」
カップを片付けながらマシューは生徒会室の天井を向く。眉を捻らして、「あ、食器に使われてたやつでは無いな」と真面目に返事をしている。誰が食器用のナイフで人を殺そうとするのだろうか、ドロシーは呆れた表情で自身の兄をじっとりと睨みつけた。
「少し確かめたいことがあるの、絶対に思い出して!」
兄さんはしっかりしているのにどこか抜けている。キャロルやブレットの前ではまるで母親のように面倒を見ているのであまりそういった印象を与えないが家族であるドロシーには別だ。人にはその時々の顔がある。
「確かめたいことって、あんまり危険なことに首を突っ込むなよ……。……アイツらの前では言いたくなかったけど」
食器がかちゃりと音を立てる。小さい頃、2人で何も入っていないカップを手にお茶会ごっこをしたことがあったな。まだ、この学院に来る前の話だ。2人はずっと、一緒だった。思い出はいつも2等分に分けられる。
「……俺はあの中に黒幕がいると思ってる」
そう言った彼の表情は暗い。
「…………そう」
そう返した彼女の顔は伏せられている。
「初めからおかしい事ばかりだ、俺たちが知らなくてシスターや司祭様たちだけが知っていることがある。……俺たちの中にはシスターたちと仲が古い人間がいるだろ。」
その言葉に何人かの生徒の顔が思い浮かぶ。何故か一般の生徒は知らない話を当然のように知っている生徒が1部にいるのは確かな事だ。彼らが何を認識しているのか、それは未だ分からないが到底全てを明かしていないのは何となく分かる。
「昔から学院にいるやつほど、確実に俺たちの知らない何かを知っている。怪しまずには居られないだろ……」
どうして、とドロシーが口を開く前にマシューは自分の言葉に後付けをするようにそう語った。
先程までここにいた生徒たちはその後言葉を交わしあったあとなんの収穫も得られずに解散した。ハロルドやエイダはなんの収穫も得られないことに収集をかけられた無意味さをこれほどまでかというまでにキャロルに当たり散らしてからその場を去っていった。
その後、話があるからと言ってカタリナがキャロルを呼び出し残されていたマシューを手伝うといってドロシーがこの場に残ったのだ。あの中に、黒幕とまで言わずとも何か秘密を抱えている人間がいるとマシューは思っている。だがそれをあの場で言えるほど、マシューはお構い無しではない。
「……その事について、私すごく気になることがあるの」
神妙な顔つきでドロシーは自身のメモ帳を再び開く。そのページにだけは栞が挟んであり、ドロシーは器用にそのページを開いた。
「兄さんにだけは、話しておこうと思って……」
ひんやりと冷気が頬を撫でる。冬が来る
冷たい冬が来る。
________________
秋が終わりを告げようとしていた
頃、周りの木々は実りを終えまた次の年まで休息をとる。温室はある程度の温度管理がされているため多少外より緑が残っているがそれでも、あの初夏の頃とは打って変わっている。
ただ一つ、変わらないものはけたましく動く生物。猫だけだ。
「なあ、それ楽しいのかよ」
そして、一人。猫の中に両手を広げ寝そべる生徒がいる。
「楽しいに決まってるだろ」
まったく見て分からないのか!とすました顔でその声に返事をする生徒。ベビーピンクの髪の毛を肩まで伸ばした彼は、突拍子もない行動で周囲を驚かせる。学院には異質な生徒が多いが、もちろん彼もそのうちの一人だ。
彼は現在数匹の猫たちに囲まれ暖をとっている。彼の手に何匹かの猫がすりすりと頭を強く押し付けてぐるぐると喉を鳴らしているが彼は猫を可愛がることもせずに両手をただ広げている。
「……ホントに変なヤツ」
なぜ、自分はここにいるのか、先程ブレットに声をかけたエイダは独りごちため息をつく。
つい先程までこの温室近くの木々の上でいつものように授業をすかしていたのだが偶然通りかかった猫に興味を惹かれこっそりと後をつけたのだ。猫に気を取られていたので気づかなかったが、よく考えてみればこの周囲で猫が向かう先といえばこの温室くらいだった。まともに考えていればブレットに出くわす温室になんてエイダは立ち寄りもしなかっただろう。
ただ、最近いつもなら釣りをしにくるある生徒をぼんやりと見つめていた筈のエイダの次官がぽっかりと穴を開けていたから、その事で少しだけ気が動転していたのかもしれない。
目まぐるしく変わっていくあれそれに辟易していたのは事実。可愛い小動物に癒されたいと思うことの何処が不自然だろうか。
だが、エイダの中でそれとブレットが目の前にいることは砂糖と塩ほど違うことだ。
なぜなら、彼らの仲もまた、良好とは言い難いのだ。
「……オマエは呑気だな、後輩が一人居なくなっても平気そうにみえる。」
誰もが悲しんでいるのは同じだが、ブレットのあまりの変化の無さにエイダはどこかほっとしたような、腹立たしいような。そんな感情を胸に抱かずには居られない。
彼の透き通ったブルーの虹彩はエイダや猫を捉えるわけでもなくどこかをじっと見つめている。
はっと鼻で笑ったエイダはそのまま踵を返し元いた場所に戻ろうとした。ここにいて猫と戯れるより、ブレットと同じ空間にいることの方が気分害するのだから当然だ。
「なあ、変だと思わないか」
ブレットの顔は見えない。既にエイダは温室の扉に手をかけていて、後ろを振り向くことが何故か出来なかった。
「可笑しい、学院から……」
そんなはずないのに。ブレットがぼそりと何かを言っているのはエイダの耳に届いていたのにそれが何なのかは何も分からない。そしてそれを、聞くことは酷く恐ろしいことのように感じエイダは背筋に冷や汗が流れそうになる。
にゃあと猫が鳴いている。
エイダは温室の扉をばたんと音をたてて閉めた。向かう先はいつもの場所だ。
もしかしたら、アイツがいるかもしれない。
エイダは考えるのをやめ逃げるように足を動かした。
______________
その母マリヤ、ヨセフと許嫁したるのみにて、
まだ偕にならざりしに聖霊によって孕り、その孕りたること顕れたり。
夫ヨセフ正しき人にて之を公然にするを好まず密かに離縁せんと思う。
斯くてこれらの事を思い回らし居る時、みよ主の使、夢に現われれていう。
「ダビテの子ヨセフよ、妻のマリヤを納るる事を恐れるな、
その胎に宿る者は聖霊によるなり、かれ子を産まん。
汝その名をイエスと名くべし、己が民をその罪より救い給う故なり」
くつくつと彼女は笑った。
「我が神、我が神、何故に我を見捨てたもうや」
腹を抱えて何がおかしいのか。
きらりと銀製のナイフが彼女の目の前には綺麗に並べられていた。
この世に全知全能の神がいるならば、聖痕をたずさった私達もまた神に近しいといえるだろうか。
そっとその手に1本のナイフを手に取り、彼女はそれを懐にしまい込んだ。
_____________
鬱蒼とした黒い雲が一面を覆い、顔を出した月がだけが僅かな明かりをともす。金色の輝きが何かを思い出させるようだ。
天文塔に続く階段を弾むように軽やかに降りていく誰かの足音がする。
虚ろな瞳で捉えた影は少女のそれを模している。
彼の真っ白だったリボンは彼の手に握られぽつぽつと赤い斑点を残していた。
悲痛に歪むその顔は、月明かりに照らされることなく黒い闇に呑まれている。
いずれこうなることは分かっていた。
では、この頬を流れたものは一体なんだというのだろうか。
乾いた笑いは笑いにもならずただの空気となって喉を通った。
「彼は強欲」
罪人には死を。
next……
2人の生徒の死を弔うかのように学院には黒が敷かれ多くの生徒が悲しみに身を沈めた。あれから1ヶ月が経ち、青緑が茂っていた学院の木々はその彩りを赤や黄色へ変えてしまった。
つい先日までオレンジ色に不気味な顔を描いた南瓜が至る所に飾られ初等部の生徒たちがシーツをかぶりお菓子を貰いに回っていたのが懐かしい。それすらもまるで蚊帳の外にいるかのようで、ずっと透明な思考のままただ二酸化炭素を吐き出していた。その手に握られたシドのロザリオがやけに重い。
「トニー、こんな所で何しているの?」
メインストリートに備えられたベンチに力なく腰掛けていたトニーに後ろから音も立てずに現れたキャロルが声をかけた。彼の後ろには高く昇った太陽があり、逆光でそのシルエットだけが目に映る。
あの事件以来生徒会は1ヶ月間、とても忙しく働いていた。それは部外者であるトニーが傍から見ても分かるほどで生徒たちの混乱を収めようと彼なりに努力していたみたいだ。こんな風に見回りを強化するといってよく生徒会の生徒が学院中を歩いている姿が見える。今キャロルがこの場にいるのもその見回りの一環だろう。
「少し考え事をしてたんです」
それは嘘だった。空っぽになった頭でぼうっと高くなった空を見上げていただけだが、優しい彼のことだからそんなふうに正直に話せば心配してしまうことは目に見えている。これ以上誰かに余計な世話をかけたくない。
「そっか、そうだよね」
何かを噛み締めるようにキャロルはそれを聞いて何度も首を上下に動かした。
「考えないといけないことは、山ほどあるから、ね……」
キャロルの表情は太陽の影でよく見えないがその視線は少し斜め下に向けられた気がする。いきなり強い風が吹いて、木の葉が彼の頭上を舞った。やけに冷たくなってきた空気があの暖かい日常を吹き飛ばしてしまうかのような。嫌な予感がまた胸を焦がす。
「近々また皆を集めようと思ってるんだ。あんなことが起こった後だけどまだ真犯人は捕まっていないから」
あぁ、やっぱり此処は____。
トニーはぎゅっと彼のロザリオを握り直した。
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「この部屋は何に使われていたものか詳しく分かっているの?」
机の上に溜まった埃を人差し指で救うようにしてディオネはその視線を眼前の白銀の持ち主へと送った。その部屋には埃がカーテンから差し込んだ太陽によって光り輝いて舞っている。指にとった埃を蝋燭の炎を消すようにディオネはふっと飛ばした。
「さあ?上級司祭のものだったんじゃないかと思うが、ここに残っているのは汚れたアンティークと本だけだったからね。流石の僕もこれ以上は分からないな」
乾いた笑いでハロルドはディオネにそう返した。そう問いただした筈のディオネはその言葉に興味を示さず、部屋の様子にその視線をゆっくりと動かしているだけだ。彼女の態度に痺れを切らしハロルドは机に置かれていたはずのチェスの駒を手に取る。
「あぁ、でもこの部屋の持ち主はどうやらチェスが好きだったようだよ」
君の弟と同じだ、と彼は付け加え黒のナイトの駒をディオネに見せつけるようにくるくると回した。
「そう……チェスが好きだったのね。じゃあ今もどこかでチェスをしているのかもしれないわね」
弟という単語に反応したディオネはハロルドの言葉を反芻しこの部屋の元の主のことを目を閉じ頭に思い描く。
この部屋を見つけて部屋の隅に転がるように落ちていたこの黒のナイトを拾ったのはハロルドだった。それから、他の駒やチェス盤はないかと探したがそれらが出てくることは無かった。何の変哲もないただの黒のナイトはここに1人置いていかれたのだ。
「……その通りだな」
ハロルドはディオネの言葉に小さく相槌を返す。
一つだけ。この部屋にあったのは黒のナイトが一つだけだ。もしこの部屋の持ち主がそれ以外の全てを持ってこの部屋から出ていったなら彼はきっと新しいチェス駒を用意しなければならないだろう。
一つだけ残されたチェス駒を見つけた時、酷く落ち込んだ。たかが駒一つ彼はきっと新しいものに変えているのだろう。ハロルドにとってそれはとても残酷なことのように思えた。記憶の片隅に置いていかれ、のちに忘れられてしまえばそこには何も無いのと同じだ。実際にそこにあろうとなかろうと、覚えていないなら。覚えられていないならそこにはあってもなくても変わらない。何れは、自分も。
「あら、ハロルドさんは不服みたいね。大丈夫よ、誰も忘れたりなんてしないから。」
ね、と小さな子供をあやすようにディオネはゆっくりとした足取りでハロルドに歩み寄る。顔に出したつもりはなかったが、何処か悲しそうなハロルドにディオネは違和感を感じたのかもしれない。ディオネの醸し出す空気感に絆されてハロルドの調子が狂わされたのかも。またはその両方。
「簡単に言ってのけるな、レディは。忘れない事なんてないさ、人は忘れるものだから。覚えていようと思ったことも水のように掌をすり抜けていくんだ」
そう言ってハロルドは自身の髪色と同じリボンを悲しげに指先で触れた。彼の眉はいつになく下げられ、その目には悲哀が滲んでいる。それでも、彼は貼り付けたように口角を無理やり上げて笑ってみせる。
「じゃあ小瓶にでも詰めようかしら。ハロルドさんは忘れられるのが嫌みたいだから。ずっと綺麗に磨いて大切にしまっておくわ」
何がおかしかったのか記憶を小瓶に詰められるわけもないのにディオネは自分の言葉にくすくすと飴玉のような甘い笑いを零す。それはハロルドの胸の内には甘すぎて、噎せ返るようなむず痒さだった。彼女のこういった所がたまらなく愛おしく感じるのに、胸の奥でそわそわと何かが主張する。それがなんなのか、思い出せたとしてもハロルドにとっては最早無意味な事だ。それは彼が誰よりも理解している。
「ねぇ、ここは少し埃臭くて嫌だわ。一緒に天文塔に行きましょうよ、夜には星が綺麗に見えるけど今の時間は太陽が当たって気持ちいいのよ」
ディオネはハロルドの手を取り、少し強引に部屋の扉へと向かう素振りを見せる。その表情は楽しそうでその手は肌寒い秋だというのに暖かい。
思い出せたところで、なんの意味もない。
忘れられたところで、忘れられなかったとして。そこに自分がいないなら悲しむことも無い。
刹那に生きると決めたなら、彼女の手をとるべきではなかった。
その手を握れば、身の程知らずにも思い違いをしてしまうだろう。
でも、彼女は僕の手をとるから、光に照らされた彼女を僕が忘れなければいいのだ。
それでも僕はその瞬間だけを切り取って彼女を脳裏に焼き付けた。
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生徒会室の窓からは木々の彩りが赤から黄色へと移り変わっていく様がみてとれる。生徒会室に人が逼迫する様子も久方ぶりだろう。ひと月ほど前、あの事件を境にそれぞれの思いは交差し集まって黒幕を探すことはなかった。
その状況に待ったを掛けたのはキャロルやマシューといった生徒会の人間であり彼らは再び聖痕者をこの生徒会室に集めたのだった。
「こうして集まるのも久しぶりだな。もっと早くこうしていられたら良かったんだがこっちも復活祭で忙しくてね」
マシューはそういうと、生徒会室の机に積み上げられたハロウィンの飾りをちらりと見やった。その隣の机は跡形もなかったように綺麗に整えられている。その所有者だった彼女の爪痕すらどこにも残っていない。
「なあ、リュンは結局どうなったんだよ。あの後からシスターも、誰も、何も言わないままだ。」
マシューの視線を辿ったのか、ふとブレットは何時になく真剣な表情でマシューやキャロルをその目で捉える。彼の瞳は色素の薄いヴァーミリオンが美しかったが、やけにその瞳が暗い気がした。
「……まさか、学院を出たのか?」
その顔は酷く歪められている。ブレットは自分で言ったその言葉に信じられないといった様子でわなわなと拳を震わせた。
でなければ、リュンはどこに行ったというのだろう。
そういった面持ちの生徒たちは、未だにリュン・フィーという生徒の最後がどのようなものであったか知らない。到底言葉で知ったところで想像できることでも無い。
「出られないワ、この学院からはどんな理由であっても出られないノ。途中退学制度なんてものは存在しないノヨ」
それくらいアナタでも知っているでショウ?とラムダはその言葉に付け足した。ブレットの隣に眠そうに立っていた彼女だが彼の言葉に口を挟まずにいられなかったのだろう。酷く哀しそうに彼女はブレットに視線を移した後に窓の外を見つめた。
学院を出ることは出来ない。
その言葉にブレットは一層その顔を歪ませる。そして彼と、彼女もその言葉に顔を暗くさせ下を俯く。いくらかの人間にそれはとても壮大な傷を負わせたようだった。
リュンのその後について、誰も口を開かない中、生徒会室はしんとした重い空気に包まれる。リュンの机は綺麗に整理整頓され、今は何も物が残っていない。あれだけ、物が渋滞していたのに。その痕跡は何も残っていない。
「……黙っていたこと、先に謝るよ。」
ブレットは後方でそう声が上がったことに驚き直ぐに振り向いた。その先には両腕で肩を抱き決まりが悪そうに眉にシワを寄せているマルセルがいる。
彼は何かを言い淀んでいるようでこの中の生徒誰一人と目も合わすことも出来ずにただ口だけを動かした。平常の彼とは打って変わり、様子に覇気が見られない。
「リュンは、もう何処にもいないよ。彼女はあの後、その罪を裁かれたから」
ひゅっと誰かが息を呑む音がする。一瞬の緊張を潜り抜けて誰かが後ずさりした。
「罪を、裁く……?」
誰がそう口にしたのか。リュンがここにいない、とは。罪を裁くとは何を意味するのか。
直ぐに理解することが出来ないのだと心臓が胸を打つ。
緊迫した空気の中でマルセルは静かに息を吐いた。
「死んだんだ」
死の連鎖がそこには確かに敷かれている。春が過ぎ夏が過ぎ、秋が終わりを告げようとしていた。レールを進むそれを止めることは出来ない気がする。
そんな、気がする。
「死んだ、って?シスターが言ってただろ!アタシたちと変わらない生活送ってもらうって」
エイダは信じられないとマルセルの言葉に声を上げる。
誰も踏み入れることの出来ない地下室へ、黒いベールの女に腕を引かれリュンはその先へと向かっていた。あの時、彼女は振り向いて、あの事件のシスターを殺したのは自分じゃないと口を開いたではないか。それを目に焼き付けただろう。心臓を穿つ槍が抜けない。
トニーは声を出すことさえ出来なかった。
目にみえるその異常さに唇が震える。
「目には目を、歯には歯を。死には死を。……随分物騒な思考だね。それを考えたのは、司祭様達か?」
部屋の家主かというように、堂々と生徒会室のソファに足を組み肘掛に頬杖をついていたハロルドが目を伏せ言った。彼の声は低く、生徒の死をいとも簡単に与えてしまう学院の異常性に怒りを抱いているようにも感じる。
「……神のほかに誰かが誰かを裁くなんて、あってはならないことでしょう」
ハロルドの言葉を聞き、テティスは悲しげにその瞼を閉じた。神は人間の罪を裁くものだ。それ以外の何人たりとも人を裁くことは許されない。人を裁くのは神だ。
「その神の声が聞こえたとでもいうんじゃないか?実際に、リュンはもうこの場にはいないんだから」
ハロルドはテティスが放った言葉を鼻で笑い飛ばし、両手を上げ眉を下げる。
神以外が、誰かを裁くとしたら。それは法に他ならない。だが誰が学院内で殺人が行われたことに予め処罰を決めておけただろう。
片付けられた彼女の机には何も残っていない。
「……どうして、マルセルさんがそれを知っていたんですか?」
恐る恐る相手の顔色を伺ようにドロシーは彼女の左隣にいるマルセルに顔を向ける。そう投げかけられたマルセルは一瞬だけ顔色をくぐ漏らせた後に独りごちるように乾ききった笑みをみせた。
「あぁ、他にも何人かの生徒は知っていたよ。事前にシスターから知らされていたから。誰も口を割らないようだったから俺が言ったんだ」
マルセルは以前からシスターひいては大人たちからの信頼が厚い。こういった情報が常にシスターや司祭の口から直接話されることはなく生徒を介して伝えられるのは何故なのだろうか。
あの日以来、主席司祭様にこの場のほとんどの生徒がお目通りすることは叶っていない。彼の言葉を聞いたドロシーは何かを思案するように押し黙った。
「……マルセルの言う通りなんだ。僕とマシューは既にその事を知っていた。いつ言い出そうかと思っていたんだけど、マルセルには申し訳ないこと言わせちゃったね」
情けないよ、とキャロルは自身の首に手を当てる。それは彼の癖なのだろうか、困ったように笑う彼の表情は暗い。
誰もがその死を容易に受け入れられている訳では無い。全てとは言わないが顔も声も、見知った人間が一度に2人も亡くして平静でいられるほど血が通っていない訳では無い。生徒会室には再びしんとした重い空気が漂う。
一体、この学院で何が起こっているのか。
正常と異常が入り乱れぐちゃぐちゃになってしまっている。
「……どうして、リュンが」
ぼそりとトニーは言葉を漏らす。どうにも出来ない理不尽が自分にだけ降り注いでいるような気がする。救いようのない惨劇は今も記憶に新しい。誰もが悲惨な顔色を浮かべる。
「事件はまだ終わっていませんわ」
悲しげに伏せられていた視線はそう言った青みがかった銀髪の持ち主へと向けられる。彼女は自分を守るように肩を抱き、その日のことを思い浮かべる。完璧な一日を。あの日以来、ここにいるはずの2人の姿は見当たらない。
一番初めのシスターを殺した犯人は未だに見つかっていないこと。なぜ、リュンがシドを殺したのか。カタリナは自身の眉を顰めた。
「リュンさんが犯人だとわかった時、私たちはシスター殺害事件の犯人も彼女なのだと思っていました。これは切り裂き魔の犯行に見せかけた彼女のものだと」
ドロシーは自身の制服に大事にしまわれたメモ帳を取り出すとそのページを雑に捲り上げた。
あの日、シドを殺害したのはリュンであると見破った彼女とハロルドであったがリュンの口からその動悸について語られることはなかった。ただ、彼女は自分の後悔の言葉だけを虚ろ虚ろに呟くだけで、心ここに在らずという具合であった。
「リュンさんとシドさんが学院に来たのは丁度1年前でしたよね。切り裂き魔についてずっと学院にいた私たちより十分理解していたはず……」
「寮内で人影をみたといったのも、リュンさんが流した噂だったのでしょうか?……彼女はずっと切り裂き魔がいるかもしれないという状況を作り出して、後でご自身の犯行も切り裂き魔のせいにするはずだったんでしょうね」
ドロシーは続けてメモ帳に書かれた痕跡を手で辿るようにして続ける。分からないことや、知らないことがあまりに多すぎた。こうして話を聞いていても不明な点はいくつも散りばめられている。
「そうですね、1度は切り裂き魔が本当に犯人なのかもしれないと僕も思いました。学院の中に犯人がいるなんて、考えたくもありませんでしたから……」
ドロシーの言葉に相槌をうつようにテティスはその手を顎にかけ小さく頷く。見知った顔の誰かが犯人だと考えるより、誰も知らない殺人鬼が犯人であれば責め立てることも罪の償い方もいっそ残酷に言い渡せたのに。リュンは何もかもを切り裂き魔という虚偽の犯人像を作り上げそれに押し付けようとしたのだろう。今思えばとても稚拙な犯行だが、着地点を見失いとってつけたようなそれが余計事件を混乱させていたようにも思える。
「どうしてリュンさんが犯行に及んだのか聞こうにも、もう聞けないのですね……。」
ゆっくりとドロシーはそのメモから目を離し、マルセルを見つめた。
彼女は今もリュンとシドのことを頭に思い浮かべているのだろうか。
「リュンは、シスター殺害の犯人を知っていたと思う。真犯人に脅されたと考えた方がいい」
悲しげなドロシーの背中をそっと撫でたマシューが言う。その言葉にマシューと折り合いの悪いカタリナはぴくりと耳を動かしその眼光を鋭く光らせる。
「リュンとシドの事件が、シスターの殺害と関係があるのか!?な、なんでそんなこと言いきれんだ…すか?」
マシューの言葉に驚いたのはカタリナだけでは無い、思わずトニーは前のめりになりながらたどたどしく騒ぎ立てた。2つの事件に何か共通点はあっただろうか。トニーがその時のことを思い出そうとするとずきずきと頭が痛むような気がした。
「そうね、共通点としては2人の死因でしょう?銀製のナイフを心臓に突き刺されていたわね」
トニーの慌てようにじっとりとした視線を向けたあと、カタリナはゆっくりと口を開いた。彼女が優雅なまでにそう語るとマシューもまた彼女に冷たい視線を送る。彼らの仲は犬や猿と変わらない。
「2人に突き刺さっていたナイフは同じ柄のものだった。偶然とは言い難いだろ。それに、あのナイフ……どこかで見たことがあるんだ……」
マシューはそう言うと悩ましげに自身の右手を顎にやり何かを考え込んでいる。
マシューいわく、2人に当てられたあのナイフはどちらも同じ銀細工が施されたナイフのようだ。
「そのナイフをもう一度みれば何か思い出すかもしれねぇですよね!?ナイフは、今どこに!?」
大きな足音を立ててトニーは考え込んだ様子のマシューの肩を強くつかみ揺さぶる。トニーの必死の剣幕に先程からカタリナは呆れ果てて、ゆっくりと息を吐き出した。
いきなりの出来事にマシューは間抜けな声をあげ、抵抗する術もなく戸惑いの表情を浮かべていた。脳がゆさゆさと揺れるのを感じる。
「さあ……使われたナイフがどこに回収されたかまでは」
語尾を濁すようなマシューの言葉にふと、トニーはひとつの疑問を感じる。
何故か、過ぎ去る日が一つ一つあまりにも性急でそんなことすら頭になかった。
本来であれば、それは何よりも大切なはずなのにあまりにもそれ以外のことに気を取られすぎていた。
「そもそも、シドの遺体は、どこに行ったんですか……?」
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「兄さん、あのナイフに見覚えがあるって、詳しく思い出せないの?」
先程まで生徒が集まっていた生徒会室にはロイド兄妹だけが残されていた。マシューが気遣い出した紅茶が飲み干され茶葉がカップに形を残している。
先程まで2人で茶葉占いの本を小さい頃に読んだとかそんな思い出話に花を咲かせていたがドロシーがぴたりと真面目な視線をマシューに向けた。
「……あぁ、何処で見たのか思い出せないんだ。でも、確かにあれは学院のナイフなんだよなあ」
カップを片付けながらマシューは生徒会室の天井を向く。眉を捻らして、「あ、食器に使われてたやつでは無いな」と真面目に返事をしている。誰が食器用のナイフで人を殺そうとするのだろうか、ドロシーは呆れた表情で自身の兄をじっとりと睨みつけた。
「少し確かめたいことがあるの、絶対に思い出して!」
兄さんはしっかりしているのにどこか抜けている。キャロルやブレットの前ではまるで母親のように面倒を見ているのであまりそういった印象を与えないが家族であるドロシーには別だ。人にはその時々の顔がある。
「確かめたいことって、あんまり危険なことに首を突っ込むなよ……。……アイツらの前では言いたくなかったけど」
食器がかちゃりと音を立てる。小さい頃、2人で何も入っていないカップを手にお茶会ごっこをしたことがあったな。まだ、この学院に来る前の話だ。2人はずっと、一緒だった。思い出はいつも2等分に分けられる。
「……俺はあの中に黒幕がいると思ってる」
そう言った彼の表情は暗い。
「…………そう」
そう返した彼女の顔は伏せられている。
「初めからおかしい事ばかりだ、俺たちが知らなくてシスターや司祭様たちだけが知っていることがある。……俺たちの中にはシスターたちと仲が古い人間がいるだろ。」
その言葉に何人かの生徒の顔が思い浮かぶ。何故か一般の生徒は知らない話を当然のように知っている生徒が1部にいるのは確かな事だ。彼らが何を認識しているのか、それは未だ分からないが到底全てを明かしていないのは何となく分かる。
「昔から学院にいるやつほど、確実に俺たちの知らない何かを知っている。怪しまずには居られないだろ……」
どうして、とドロシーが口を開く前にマシューは自分の言葉に後付けをするようにそう語った。
先程までここにいた生徒たちはその後言葉を交わしあったあとなんの収穫も得られずに解散した。ハロルドやエイダはなんの収穫も得られないことに収集をかけられた無意味さをこれほどまでかというまでにキャロルに当たり散らしてからその場を去っていった。
その後、話があるからと言ってカタリナがキャロルを呼び出し残されていたマシューを手伝うといってドロシーがこの場に残ったのだ。あの中に、黒幕とまで言わずとも何か秘密を抱えている人間がいるとマシューは思っている。だがそれをあの場で言えるほど、マシューはお構い無しではない。
「……その事について、私すごく気になることがあるの」
神妙な顔つきでドロシーは自身のメモ帳を再び開く。そのページにだけは栞が挟んであり、ドロシーは器用にそのページを開いた。
「兄さんにだけは、話しておこうと思って……」
ひんやりと冷気が頬を撫でる。冬が来る
冷たい冬が来る。
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秋が終わりを告げようとしていた
頃、周りの木々は実りを終えまた次の年まで休息をとる。温室はある程度の温度管理がされているため多少外より緑が残っているがそれでも、あの初夏の頃とは打って変わっている。
ただ一つ、変わらないものはけたましく動く生物。猫だけだ。
「なあ、それ楽しいのかよ」
そして、一人。猫の中に両手を広げ寝そべる生徒がいる。
「楽しいに決まってるだろ」
まったく見て分からないのか!とすました顔でその声に返事をする生徒。ベビーピンクの髪の毛を肩まで伸ばした彼は、突拍子もない行動で周囲を驚かせる。学院には異質な生徒が多いが、もちろん彼もそのうちの一人だ。
彼は現在数匹の猫たちに囲まれ暖をとっている。彼の手に何匹かの猫がすりすりと頭を強く押し付けてぐるぐると喉を鳴らしているが彼は猫を可愛がることもせずに両手をただ広げている。
「……ホントに変なヤツ」
なぜ、自分はここにいるのか、先程ブレットに声をかけたエイダは独りごちため息をつく。
つい先程までこの温室近くの木々の上でいつものように授業をすかしていたのだが偶然通りかかった猫に興味を惹かれこっそりと後をつけたのだ。猫に気を取られていたので気づかなかったが、よく考えてみればこの周囲で猫が向かう先といえばこの温室くらいだった。まともに考えていればブレットに出くわす温室になんてエイダは立ち寄りもしなかっただろう。
ただ、最近いつもなら釣りをしにくるある生徒をぼんやりと見つめていた筈のエイダの次官がぽっかりと穴を開けていたから、その事で少しだけ気が動転していたのかもしれない。
目まぐるしく変わっていくあれそれに辟易していたのは事実。可愛い小動物に癒されたいと思うことの何処が不自然だろうか。
だが、エイダの中でそれとブレットが目の前にいることは砂糖と塩ほど違うことだ。
なぜなら、彼らの仲もまた、良好とは言い難いのだ。
「……オマエは呑気だな、後輩が一人居なくなっても平気そうにみえる。」
誰もが悲しんでいるのは同じだが、ブレットのあまりの変化の無さにエイダはどこかほっとしたような、腹立たしいような。そんな感情を胸に抱かずには居られない。
彼の透き通ったブルーの虹彩はエイダや猫を捉えるわけでもなくどこかをじっと見つめている。
はっと鼻で笑ったエイダはそのまま踵を返し元いた場所に戻ろうとした。ここにいて猫と戯れるより、ブレットと同じ空間にいることの方が気分害するのだから当然だ。
「なあ、変だと思わないか」
ブレットの顔は見えない。既にエイダは温室の扉に手をかけていて、後ろを振り向くことが何故か出来なかった。
「可笑しい、学院から……」
そんなはずないのに。ブレットがぼそりと何かを言っているのはエイダの耳に届いていたのにそれが何なのかは何も分からない。そしてそれを、聞くことは酷く恐ろしいことのように感じエイダは背筋に冷や汗が流れそうになる。
にゃあと猫が鳴いている。
エイダは温室の扉をばたんと音をたてて閉めた。向かう先はいつもの場所だ。
もしかしたら、アイツがいるかもしれない。
エイダは考えるのをやめ逃げるように足を動かした。
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その母マリヤ、ヨセフと許嫁したるのみにて、
まだ偕にならざりしに聖霊によって孕り、その孕りたること顕れたり。
夫ヨセフ正しき人にて之を公然にするを好まず密かに離縁せんと思う。
斯くてこれらの事を思い回らし居る時、みよ主の使、夢に現われれていう。
「ダビテの子ヨセフよ、妻のマリヤを納るる事を恐れるな、
その胎に宿る者は聖霊によるなり、かれ子を産まん。
汝その名をイエスと名くべし、己が民をその罪より救い給う故なり」
くつくつと彼女は笑った。
「我が神、我が神、何故に我を見捨てたもうや」
腹を抱えて何がおかしいのか。
きらりと銀製のナイフが彼女の目の前には綺麗に並べられていた。
この世に全知全能の神がいるならば、聖痕をたずさった私達もまた神に近しいといえるだろうか。
そっとその手に1本のナイフを手に取り、彼女はそれを懐にしまい込んだ。
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鬱蒼とした黒い雲が一面を覆い、顔を出した月がだけが僅かな明かりをともす。金色の輝きが何かを思い出させるようだ。
天文塔に続く階段を弾むように軽やかに降りていく誰かの足音がする。
虚ろな瞳で捉えた影は少女のそれを模している。
彼の真っ白だったリボンは彼の手に握られぽつぽつと赤い斑点を残していた。
悲痛に歪むその顔は、月明かりに照らされることなく黒い闇に呑まれている。
いずれこうなることは分かっていた。
では、この頬を流れたものは一体なんだというのだろうか。
乾いた笑いは笑いにもならずただの空気となって喉を通った。
「彼は強欲」
罪人には死を。
next……
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