episode4.死者を騙る者

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礼拝堂に続く渡り廊下は石膏で造られた柱が何本も連なり中庭に開放されているため風が吹き通す。頬にあたる風は冷たく僕を突き刺すようだ。
僕は寮の部屋に戻ることも食堂に行くことも図書室に行くこともやめて、足の動くまま目が映し出すその先へふらりと時間を潰すことにした。
これは偶然。偶然を必然と呼ぶなら、そうなのかもしれないが。ある生徒の空気の上を走るかのようにそこらに響き渡った声も耳に古くないそこは、かつて生徒たちが足繁く通い祈りを捧げていたのが嘘かのように伽藍としていた。
何故、ここに来たのかと。硝子張りの窓を出し抜いて入ってきた光が僕に問う。眩い光を遮るように僕は右手を顔の前にかざした。指の隙間から僅かにみえる視界では足元も覚束無い。頼れる外界からの情報は両耳が受け取る。信じられないことに。誠に信じたくはないが、僕の耳は鼻をすすり、声を押し噛むようにして口から漏れ出た空気の音を拾った。とても厄介な先客がいる。
確かめるようそっと右手を下ろし声のする方へ首を傾ければ案の定、並べられたカウチの先に祈りを捧げるでもなく肩を揺らす生徒がいた。何故自分はここに来てしまったのか今すぐ踵を返したい。こんな気まずい状況に出くわすくらいならトニーと釣りでもしていたほうがマシだ。もっと言うならカタリナさんに説教でも受けた方がマシだ。いや、よく考えるとそれとこれは同じくらい嫌だ。
声をかけた方がいいのだろうか。右手はポケットの中に綺麗に折り畳まれたハンカチーフを見つけている。これを渡すか。渡すべきなのか。少し泥の着いたその靴先を生徒に気付かれないようにゆっくりとその生徒へ向けた。
小さな声で押し殺すようにその生徒の嗚咽が礼拝堂に漏れ出している。近づけば、それは女子生徒だった。僕は試験の結果が好ましくなかった時もこんな気分になる。どういう気分かとそれを言葉にするならそういう気分なのだ。腹の奥から喉に向けてつっかえ棒を出そうとしているような気分だ。つまり、ストレスだ。泣いている女子生徒に声をかけるなど、16年間の人生の中で上手くいった試しがない。そもそも上手くいったとは何を指すのかも分からないから上手くいかないのだ。
トクトクといつもより早く鼓動する心臓の上には赤い紐で繋がれたロザリオが揺れている。泣いている女性をほっぽく不名誉さと手に汗握るまだ見ぬ畏怖を天秤にかければそのまま背中を向けることは後ろ髪が引けた。
大丈夫だ。このくらい造作もない。思えば、こんなことよりもっと辛いことはたくさんあった。比べればこれくらい大したこともない。筈だ。
「よかったらこのハンカチを使うといい......」

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そう、例えば試験で残念な結果になった時シスターに呼び出された時を思い出すんだ。あの時は顔が真っ白になっているとトニーに心配された位だった。このくらいなんてことは無い。
思った以上に絞り出した声は小さかった。彼女には聞き届いていなかったかもしれない。
いきなり目の前に差し出されたハンカチにすんと顔を上げた女子生徒の目が合う。酷くやつれていていかにも精気がないとはこのようなことをいうのだろう。妖精に悪戯でもされたのかと心配になる。
「どうもありがとう。」
そう言ってハンカチを受け取ったまま自身の両手でそれを握り締めると彼女は再び瞳に涙を浮かばせてそれを零し始める。
やってしまった。失敗だ。こんな時はどうしたらいいんだ!
シドはその生徒の横でしどろもどろになり口からはう、だのあ、だの単音の母音が無意識に出てしまっていた。ハンカチが消えて行き場のなくなった右手を意味もなく上下させる。
落ち着け!こういう時はどうしたらいいのか。考えるんだ!そう、あの時は......。
引き攣っていた頬を引き締めてシドが生徒の横に人間1人分の空間を開けて腰を下ろす。いつだったか、泣いていた女の子を運悪く見つけてしまったことを思い出していた。その時は、僕の-自分で言うのも癪だが-砂糖粒程度の勇気を振り絞ってその子に声をかけたのだ。
「落ち着いたらでいいんだ、その。話を聞くよ」
シドは喉を振り絞った。お陰でさっきよりは大きな声が出たので、彼女の耳にも届いた様だ。女子生徒は首を縦に何度も降っている。涙はシドの一言が決め手になったのか決壊したように止められることなく溢れ出した。僕は横目でちらりとそれを確認するといたたまれなさに身を縮ませた。
あの時はその子になんて声をかけたんだっけ。僕はとてもじゃないけど誰かを慰めるなんて真似得意じゃなかった。それは今も変わらない。ましてやその時の僕はもっと人を励ますことなんてできもしなかった。きっととても下手なことを言ったのだろう。声をかければその子は俯いていた顔を上げてへらりと僕を見て笑ったんだ。自分が酷く情けなく思えたことだけは覚えている。泣いている子を慰めようと声をかけたはずなのにその笑顔に慰められたのは僕の方だったから。
数刻すれば彼女の呼吸は段々と緩やかさを得て、深呼吸を繰り返していた。ハンカチは涙で染みを作っている。ぽつりぽつりと小雨が降り注いだような、ぽつりぽつりと朝露が葉を滑り落ちるような声で彼女はゆっくりと語り始めた。
「私、あの時見てしまったの。今でも鮮明に脳裏に焼き付いているわ。」
「シスターが、十字架に括り付けられ、死んでいるのを」
彼女は自身が件の事件の第1発見者であることを話す。あの事件以来口を開くことなくずっと塞ぎ込んでいたという彼女の話は生徒会の人から聞いていた。無理に話を聞くのも良くないから、追いかけ回さないようにと釘を刺されていたことを思い出す。といってもあれは、僕たちにむけた言葉というよりも自信家で軽薄なある一人の男に対する忠告だと僕は思っている。
運の悪い少女だと僕は思った。あの日、この場で偶然にも足を運んで偶然にもそれを見た。僕だったらどうしただろう。死体なんてもの見たくもない。想像すれば口の中が酸っぱく感じる。
ふと、疑問に感じるのはどうしてわざわざこの少女は自身の心の傷ともいえる事件の火中に居るのかということだ。人のあられもない姿を見てしまった場所では嫌なことも思い返されるだろうに。シドは彼女が手に握るハンカチを見つめて彼女の言葉をじっと黙りこくって聞いていた。
「あなた聖痕を持っているの。あぁ、そう。ではあなたは罪人を探しているのね」
そうその女子生徒がかなしげな声を出し言うので、シドは顔を上げて彼女の方を見やる。彼女も同様にじっとシドの顔を、頬を、聖痕を瞳に写していた。
「あぁ、そうだ。けれど、どうして......?」
じっとこちらを見つめる彼女の瞳が刺すように痛い。この目は苦手だ。稀にいるのだ。聖痕をもつと分かると偶像としてこちらを敬愛するような人が。それは、生徒というより1部のシスター、特に妙齢のシスターに多い。
「死んだ先には何があると思う?」
女子生徒はこちらの質問には答える意思がないというようにその目を瞬かせ問うた。こういう目の人間は常に一方的でこちらからの言葉など左耳から右耳へと聞き流すのだ。その内界にある種の狂気を含んでいると僕は思う。彼女の視線は僕、聖痕にしがみついたままだ。
「......神を尊ぶ人間なら天国へ行ける。」
先日落第の判を受けた神学ではこのようにシスターが教鞭をとっていたはずなのでまちがいはない。この程度は常識なのでもはや試験にすらも出ないのだが。
「そうよね。えぇ、私もそう思うわ。死という運命さえも神が与えたものなの。あのシスターの姿をみて私もはっとさせられたわ。あなただってあの姿をみたらきっとそう思うはずよ。」
満足のいく回答だったようで女子生徒はうんうんと頭を頷かせながらようやくその視線を僕から放し、かつてあのシスターが掲げられていた方を向いた。その表情はどこかうっとりとしている。
「あぁ、神は偉大だわ。祈りを捧げることで私は死後の世界であっても幸福で居られるのね。そう信じていたからあのシスターも最後には笑っていたのよね。」
最後の日に審判を受け、永遠の生命を与えられる者と地獄へ堕ちる者へに分ける。神を尊べば死後、神のもとに復活することができるのだ。だから僕達は祈りを捧げる。誰だって幸福にありたいと願うのは当然だから。
ただ、彼女のそれは少々過激なようだ。先程まで震えていた彼女の影はどこにも見られない。
「私は毎日欠かさずここに通って祈りを捧げていたの。あの日も同じよ。運命なんて存在しない、全ては神の御心が決めたこと。だからあの日私にそれを見せたのは神の啓示といっていいとそう考えたの」
「シスターは笑ってたわ。確かに笑っていたの。神の元へ行けることがあんなにも幸せなのね。羨ましいわ、私あの日からずっとシスターの姿が頭から離れない。私もあぁなりたい。あんな名誉な死が他にあるのかしら!」
「いいえ、きっとないわ!私だって今すぐにでも神の元へ行こうと思ったのでもよく考えてみれば自分の命を捨てることは重罪でしょう?そう思ったら悲しくて哀しくて」
「涙が止まらなくなるの。人生において神と巡り会う以上の幸せはないのよ!あぁ、私はあとどれくらい神に祈り続けばいいのでしょうね。」
忙しなく動かされた彼女の舌は歌うように神への賛美を乗せる。祈りを欠かさないシドといえどその有様には不気味だと背中が冷たくなった。女子生徒は両手をキツく結び目を閉じゆっくりと頭を掲げて見せる。
「誓って祈りを捧げ続けるわ。偉大なる父に感謝しなくては。」
「ねぇ、貴方もそうでしょう?」
気づけば、こちらを覗き頬を引き攣るようにして口角を上げた彼女の姿があった。シドは瞠目し思わず声を上げそうになるのを既のところで腹の底にしまい込んだ。
僕は違う。僕は......。
語り終えてスッキリしたのか、こちらのことなどまるでなかったかのように女子生徒が涙を流しながら再び祈りを続け始めた。シドはその場を後にすることにした。今にも彼女が自分を殺してくれとナイフで脅されるのではないかと不安になったのだ。それは心配のし過ぎだと考えすぎだと思われるかもしれないが、それくらい女子生徒の瞳はぎらぎらとしていて恐ろしかった。既にその目はシドのことなど見つめてはいない、その目には神と字が刻まれているかのようだった。あれはとうに狂ってしまっているのかもしれない。人の死体なんて目の当たりにしたのが相当精神に異常をきたしているのだ。
人間の幸福とは、それを結果論で語るなら死後にしか語ることが出来ないだろう。彼女は自信が死人かのように死の先こそが幸福だと言ってみせたがそれはどうだろう。
礼拝堂から1秒でも早く離れたかったシドは少し足早に渡り廊下をかけた。
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とんとんと掌に収まる程度のそれでも確かに厚みのある紙束をマシューが整えるように机上に叩きつける。紙は背の丈を揃えてマシューの手によって棚へと仕舞われた。
「2人とも助かった。ありがとな。」
そう言うと、マシューは生徒会室に備え付けられた椅子に腰掛けているドロシーとリュンに向けて爽やかな微笑みを返す。
「これは貸しですよ兄さん!今日の夜はホットココアを用意して下さいね!」
身を乗り出すようしてドロシーがふんすと鼻息を荒くして腕を組んだ。瞳を閉じ偉そうに口角だけを人一倍上げている。いつもであればマシューはその様子に呆れたようにため息をこぼしている所だが今回ばかりはマシューはドロシーに助けられた。つい先日から始まった事件の捜査にあたるばかりで普段の生徒会の公務が疎かになっていたのだ。その分、机には普段通りの書類が山積みになっていったのだがそれを片付けなくてはならない筈の人材が不足していた。廊下をとぼとぼと歩いて暇を潰していたリュンをようやく捕まえることに成功したので、巻き込むような形で一緒にいたドロシーを手伝わせたという始末だ。
ドロシーはカルペディエム所属であり、学院一の問題児の右腕のような存在なので生徒会の仕事なんて手伝わせるとハロルドに出くわした時につらつらと嫌味をぶつけられるのだ。しかし、この際仕方がない。何せ生徒会長として生徒会を率いているキャロルもこの場にいないのだ。生徒会が機能するのはこのマシューあってこそである。それこそ、ハロルドやカタリナを中心に生徒会に対してお小言を言われるのも致し方ないことだ。
「ふぅ、まったく人遣いが荒いんですよ!私だって忙しいんですってば」
ドロシーの横に腰掛けて椅子に座っている。前に乗り出しているドロシーとは反対に背中を背もたれに預けてくたっとしている。実際疲れたのだろうが、彼女は無理矢理ここに連れてこられなくてもやらなくてはならない通常業務であるということを自覚してほしい。マシューはじっとりとした粘着質な視線を彼女にぶつけた。文句を言って顰めっ面になっている彼女はその視線に気づくとそろりそろりと視線を逸らす。
「でもリュンも頑張ったな。それは褒めてやるけど、次からは俺が連れてこなくてもここに来てこの書類を片付けてくれよ」
彼女達の目の前にはそれぞれ書類が並んでいるが、マシュー、リュン、ドロシーの順にその数は減っていている。実質1番苦労をしているのはマシューであった。影で生徒会を支えている縁の下の力持ちとはマシューのことだ。彼がいなければこの学院の生徒会はほぼ機能していないだろう。
リュンはマシューが卒業したらどしようと背中を柔らかい素材の椅子に預けながら考え瞳を閉じた。
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ぽちゃぽちゃと水音にうきが沈む音がする。先程から一向に釣れない魚と対峙していたのはトニーだった。
むしゃくしゃとした彼は癖毛が無造作にはねたスチールグレーの髪を掻き毟る。うがーーー!と言葉にもならないようの声を上げているがこの流れは先程から3回以上は見ている。
「何やってんだアイツ」
気になるとは言わない。いや目に入ってくるのだ。仕方がない。
エイダは池付近の背の高い木に上り日中を過ごすことが多い。そして、トニーも池で釣りをして過ごすことが多い。必然的にエイダはトニーのことをその木の枝に腰掛けたままぼうっと眺めてしまっていた。釣れもしないのにあぁやってずっといるから馬鹿馬鹿しくて仕方がないのだ。だが、それを言ってやるのも馬鹿馬鹿しいのでなるべく視界に入れないようにしているのに。目を瞑った傍から大声を上げるのでぎょっとして彼の方に視線を向けてしまうのだ。
自然と口からは空気が吐き出される。鬱々として重たいものだったが風に攫われて直ぐに消えた。
最近は煩わしいことばかりだ。あの事件以来、シスターの犯人を探すだのなんだのでカルぺディエムだけでなく、生徒会にまで付きまとわれる。
「これがなんだっていうんだ......」
自身の額当てをぎゅっと握り、目を瞑ると今でも思い返す事ができる。一面に広がるコーン畑、自由の国。こことは違う、伝統や宗教に縛られることもないあそこはいつだって異物を受け入れ共生してきた。
ここはさながら生き地獄だ。逃げ出すことなど、できやしない。彼奴らはそれを神のわざだといって尊び悦ぶ。でも、ワタシは違う。いつだって逃げ出せる。それなのに、そうしないんだからワタシも変わりはしない。自由を謳うのにいつだって身を縛るように熱い聖痕のせいで自由ではいられないのだ。
「わ"ーーーーー!!!」
男の叫ぶ声がしたと思えば、直後にはどぼん!と水が跳ねる音が辺りに響いた。鳥たちが羽の音を大きく鳴らして辺りから逃げていく。見れば、いや見なくても予想はついていたが彼が池に落ちているのがみえる。バシャバシャと手で水をかいてもがいているのをみてエイダは木から急いで下りて、池に溺れたトニーの方へと急ぐ。
「あ!足ついた!」
いま叫び出したいのはエイダの方だった。
「あれ!エイダ!いたのか!」
へへっと屈託のない笑顔を向けているが頭には池の植物が引っかかっている。どうしてか足が勝手に動いた。こんなやつ放っておけば良かったのにどうしてだろう。その笑顔をみれば幾分か怒りが収まりその間抜けさにむしろ愉快さが零れる。気づけばぷっと吹き出しエイダはトニーと同じように笑っていた。
「笑うなよ......」
気恥しそうにトニーが水を掻き分け陸に上がると水を吸った制服を重そうに引き摺った。怪我はないようだ。
「オマエは死にそうにないな。どんなドジを踏んでも笑ってもらえるだろうよ」
笑われると恥ずかしそうにするのも面白い。ずっと見ていても飽きることがない。これならば目に入れられる。
「なっ!怖いこというなよ!こんなドジで死にたくねぇよ俺は」
「あぁ、そんなドジで死んだら一生笑いものにしてやるよ」
むっとした彼がエイダに言い返すが彼女に叶うはずもない。いとも容易く転がされている。いいかえすこともできずに口元をもごもごと動かす彼を見てまた笑いが込み上げる。エイダをちらりとみたトニーはその表情に頬をすこし染めた。これは池の冷たさに寒さに震えているだけだと心の中で何度も唱える。少し動悸が早い気がするのも彼の中では全て池に落ちたせいなのだ。
「名探偵トニー様はなんだって釣りなんかで暇つぶしてんだよ、事件解決はまだか?」
揶揄う仕草でエイダはトニーに近づくとひょいと彼についた池の植物をとりそこらに投げた。別段、彼らの行動に興味がある訳でもないがあんなに張り切っていた人物がこんな所で道草を食っているのを疑問に思ったのだ。
「あれ以来人影の噂も聞かなくなったし。犯人のしっぽは掴めねぇんだよ。これだ!っていう情報も掴めないし......。そうだ!エイダも協力してくれよ!」
頼む!と両手をぱちんと合わせて彼はエイダに頭を下げる。その仕草のせいで彼に滴っている水が少し跳ねた。迷惑そうにエイダは顔を歪めると嫌だといって踵を返した。彼に質問したのはエイダの方だったがこのような流れになることを望んだ訳では無いのだ。それでも諦めずにトニーはエイダの後を濡れた身体で付いてくる。
池臭いからはやく寮に戻って着替えてこい!とエイダがいうとハッとした様な表情でポリポリと頭をかきながら彼は寮の方へと背を向け駆け足で行ってしまった。その場にはぽつんとエイダだけが取り残される。
まさかアイツ自分がびしょ濡れなこと忘れてたんじゃないよな。
ため息が零れた。
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トニーは自身の部屋へと早足で歩いていた。池で水を吸った靴は先程から床を踏みしめる度に水を吐き出して気持ち悪い音を出している。またそれは音だけではなく、歩いているトニーの足も悲鳴をあげている。
廊下ですれ違う生徒からは奇異な目で見られるが、もはやこれには慣れたものだ。相手方もトニーのドジには見慣れているのだろう。深く訳を聞いてくる生徒もいたが池に落ちたというと腹を抱えて笑っていた。
トニーの髪から服から滴った水が歩いたあとを追うように廊下を濡らしている。遠くで掃除を担うシスターが悲鳴をあげる声が聞こえるが、トニーには聞こえていないのか歩みを止めることなく彼は進んでいた。
「お前、酷い格好してるぞ......」
ぶつかりそうな勢いで進行方向の反対側からやってきた誰かに焦点を合わせるとこれまた眉を釣り上げ顔を顰めた親友がいた。シドも何かから逃げるような足ぶりで歩いていたようで危うくぶつかる所だった。トニーはそっと胸を撫で下ろす。シドはというと、なんでそんなに濡れているんだとか制服に藻がついているぞとトニーから1歩離れる。明らかに嫌そうな顔をして離れるのでじりりとトニーも彼に詰め寄った。
「ハンカチくらい貸せよ!」
なんて言い草なんだ。それが人に物を頼む態度かなどと悪態をつきながらその言葉にシドは右ポケットへと手を運ぼうとするが途中であ!と一際大きな声を挙げた。
何かに気づいた様子の彼は元より白い顔面を青白くさせて両手を顔の横へとあげた。きっと睨むようにしてトニーを見たので一瞬ぎょっとする。
「......ハンカチはない!さっさと自室に戻れ!......ストレスだ。」
何故か少し焦った様子のシドはそのままハンカチは諦めようとぶつくさと言いながらとぼとぼと歩いていってしまった。その方向からして自分の部屋に戻るのかもしれない。シドはトニーと違ってハンカチを忘れたりすることも少ないのだが、今日はどうしたのだろう。親友の丸まった背中から視線を逸らしトニーもまた反対方向へと進んだ。
その途中、そういえばとこの前の神学と数学と物理学の授業でシドと共に落第の判を貰ってシスターに怒られたことを思い出す。再試験を言い渡されたのでまた一緒に勉強会でもしようと先程すれ違ったシドのことを考えた。今日も一緒に釣りに行こうと誘ったが、すごい顔をして断られたのだ。散歩に行くんだとトニーよりも先に教室を出ていったきり彼がどこに行ったか分からないがよっぽど嫌なことでもあったのだろうか。
まあ、何にせよ、話は明日にでも聞けばいいか。
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「僕を見るなり突っかかってくるのは辞めて欲しいな」
「まさか。ご挨拶をと思って声をかけただけだが」
トニーは目の前の光景に目を丸くした。温和でおっとりたまに抜けているのかと思うほど間の抜けたところがあるが頼りになるマルセルと自身の手当をしてくれることもある自信家だが聡明、なんだかんだいって好感をもっていたハロルドの2人が廊下の真ん中でトニーの行く手を塞ぐように口喧嘩をおっぴろげていたのだ。いつもは余裕の笑みを浮かべていていかにも先輩らしい姿しか見ていなかったためこのように眉を顰めては相手を牽制する2人をみてトニーは驚いた。ハロルドに関していえば生徒会に対する態度は割と辛辣なものがあるところはこれまでの所でよく知っていたが、まさかあのマルセルがこう人に接することが出来るとは意外だった。
「ん?ブラザー!ブラザーではないか良いところにいた。その姿実に愉快だね、今日の天気は晴れだが所により雨模様だったのかい?」
ハロルドは行く手を巾かれ2人の前で歩みを止めたトニーに気づくと両手を広げて彼に近づく素振りをみせた。だが、直ぐにそのトニーの体が全身水気を含み豪快な水遊びをしたということがわかると1歩止まり愉快そうに声をあげ笑っている。先程までマルセルとの間で火花が飛んでいたのは嘘のようだ。
「いや、雨つうかこれはなんつうか事故つうか......です」
覚束無い敬語で照れ臭そうにポリポリと後頭部をかいた。このように声をかけられるのももう何度目だ。その下手くそな敬語をきいて余っ程ツボに入ったのかハロルドは可笑しくてたまらないと言いたげに再び笑い出した。掴みどころのない人だ。あえて、掴まえられぬようにしているのかもしれないが。
トニーは身体をくの字にして笑い転げるハロルドを横目にちらりとマルセルを伺った。
「あぁ、気の毒だったね。僕はあれとは違って君の失態を笑ったりしないよ!これを使って」
そう言ってマルセルはポケットの中から少しグシャグシャになったハンカチをとりだすと、髪から滴っている水で濡れたトニーの顔をゴシゴシと拭った。赤子のように世話をされるがトニーになすすべは無い。ハンカチからは保健室の薬品の匂いがする。
「ありがとうごさいます!」
大きな声でそういうと、先程のマルセルの嫌味が気に入らなかったのか今度はハロルドが綺麗に折り畳まれ美しい刺繍の施されたハンカチを手にそれを差し出してくる。使えということだろうが、あまりにも綺麗なのでこれを使って汚すのはとてもじゃないけど気が引けたので丁重にお断りした。ハロルドにはそれが不服だったようだ。今日はやけに色んな人に会うなとトニーは目の前で煽りあい全くもってトニーを通しす気のない2人を眺めてぼうっと考えていた。
「はっぐしょぁ"ん!」
2人の言い合いを止めたのはトニーの豪快なくしゃみだった。2人は火花を散らしあっていた視線をそのトニーへと向ける。マルセルはそのくしゃみを聞いて瞠目するが直ぐに利き手の手袋を外しトニーに駆け寄って、その手を取った。
「冷たいな。もう夏も終わるっていうのにこんな格好じゃそりゃくしゃみもでるよ。暖かいシャワーでも浴びた方がいい。喉が痛くなったりくしゃみが止まらないようなら医務室にくるんだ」
子供を叱るような仕草でマルセルはトニーに言い放った。
してやったりという顔をしているが早く部屋に戻ろうとしていたところを邪魔されていたのはこちらなのだが。
「あぁブラザー、そうすべきだ。まずはその衣服を取り替えた方がいい。自室への行き方は覚えているか?」
ハロルドはトニーを何歳児だと思っているのだろう。自室への行き方くらいはさすがにわかる。眉を八の字にしトニーを心配するような素振りで肩を掴まれるが彼が本気で言っているのかどうかは分からなかった。
トニーは心配ありがとうございますと引き攣った笑みで2人の間を潜り抜けた。人騒がせな人達だ。決して悪い人ではないのだが如何せんこういった所がある。完璧な人間なんていないのだから仕方の無いことだ。
トニーは鼻水をずずっと啜り自室へと急いだ。廊下を曲がって階段を1階分登り右に曲がればすぐに自分のベッドにありつける。なんてことは無い。池に落ちて風邪をひくのも初めてじゃない。大丈夫だ。充分いつも通りなのだ。
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ここロプツォルゴ学院の図書室は蔵書が豊富だ。城の一角には離れのような造りになっており、そこ一体は図書室とされている。本棚が壁のようにいくつも並びさながら迷路のような空間で窓から差し込む光が遮られるためとても薄暗い。唯一読書のために用意された机には明かりが灯されている。それ以外は手持ちのランプを持つ以外に明かりはない。
その一角にはセレスタイン家の双子が2人肩を並べて読書をしていた。その向かいには読み切れないだろう量の本をいくつも机に並べ読書に耽っているラムダがいる。
「地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう」
そうディオネが手に持つ本を読み上げ、自身の片割れへと視線を向けた。
「神様はすごいのよ、テティ。これによると神は6日間で天地を創造したの。人間の男は土から、女は男の肋骨から。動物は人間の食物として神がお造りになったの」
何が面白いのか彼女はくすくすと笑ってみせる。そんな自身の姉を見てテティスは心臓のもっと中心がくすぐったい気持ちに苛まれるのだ。

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「それは創世記ネ。デュオは神学に興味があるの?もっと面白い本は沢山あるのにそれを選ぶのは変わってるワ」
ふと、目の前に座って本に埋もれてこちらに目もくれなかった小さな先輩が本ではなく2人に話しかける。途端にディオネは機嫌を良くして口角をさらにあげた。
「ラムダさんが読んでる本がどんなものか気になったの。」
本を抱きしめるように抱えて、ディオネはラムダに微笑みかける。テティスはその姉の様子を見てこの2人の会話を穏やかな微笑みを浮かべて聞いている。
「アラそう。アナタは神に興味がないのだと思っていタワ」
ラムダはそう言うとちらりとその視線をテティスに向けた。この双子はよく図書室に来てこうして共に時間を過ごすこともある。話に聞けばテティスが神を信じ尊ぶように語る一方でディオネも同じように神を敬ってるように思える。だが、言葉の節々から彼女自身の信仰があまり深くないことは容易にみてとれる。神を信じる人間というのはその目に狂気を孕み、それでいて平気で愛を語り、もっと清廉潔白なのだ。
ラムダの言葉にディオネは目を細めた。
「神は時に残酷なのね。動物はあんなに可愛らしいのに殺して食べるだけに存在するなんていうんだもの」
彼女は手に持っていた本をぱたりと片手で閉じその本を机においた。彼女は決してテティスの前で神についてこのように語ることはないので珍しいと思う。
「動物に同情するのは、動物が人間に近い存在だカラ。植物にはそう感じないでショウ?人間は人よりかけ離れた存在には憐れみも尊敬も感じないようにできているのデス」
そういうとラムダはまた静かに読みかけの本に視線を移して二度とこちらを見ることをしなかった。
読書を止めた姉にテティスは食堂にでも行こうかと声をかけるがディオネは静かに首を横に振るだけだ。
「テティはどう思うの?」
質問の意図を掴むことができずテティスは曖昧に笑うことしか出来なかった。じっとこちらを見つめたままのその瞳には自分がいる。その事に酷く安堵していた。
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朝は潮のように夜を追い出していく。遠方から滲むように広がる朝は古城の黒を白く明るく染め上げるのだ。どこからか鐘が響き鶏鳴の声がする。かすかな輝きが空気の層を白く照らした。
朝の食堂には並べられた長机一面に皿が幾つも並び生徒たちがそれぞれ着席し食事をとっている。名画さながらのご馳走だ。いつにも増して豪勢な大皿の中身から器用に自分の好みのものだけを取り分けた。コース料理のように出てきたものを食べるのとは訳が違うのだ。好みのものだけ食べても誰も文句は言わないだろう。そう考えて、カタリナは苦味のある食材を避けて自身の小皿の隙間を無くしていた。
背筋をピンとのばしその制服には一切の乱れもない。彼女にとって朝とはそういうものだ。朝からだらしなくすればその日一日は酷く堕落したものになる。そう、隣の彼のように。カタリナはその視線を隣で大皿を食べ尽くす勢いで食事をするブレットに向けられていた。鋭い眼光に目もくれずブレットは食事を楽しんでいる。
「ブレット、貴方きちんと噛み締めて食べていますの?食材たちに感謝するという気持ちはないのかしら」
眉はぐぐぐと顔の中心、鼻の方へと寄せられた。カタリナは普段から眉を顰めているが人に注意する時もより一層不機嫌そうな顔をする。
「お〜!神よ〜!ありがたい!昨日の夜から何も食べていないんだ!ありがたや〜」
ブレットはそう口だけの感謝を述べながらもごもごと言いながら食べ続ける。この様子を見るに食事の前に祈りを捧げることなく乱暴に席について食事を始めたに違いない。なんと不敬な。
少し食事の時間からは遅れて椅子を引く音がカタリナの横からする。ブレットから視線を外しその音の方を見やると寝坊しちゃったといい癖毛を抑えて座るキャロルがいた。
完璧な朝とはこのようなものでは決してない。カタリナの両端に座る彼らは今日という一日を朝から台無しにしているのだ。彼女はふんとフォークを手にし食事を再開することにした。皿には何故か緑色の苦味を伴うグリーンピースが紛れていた。覚悟をきめてぐさりとそれをフォークで人差ししたあと一思いに口に放り入れる。完璧な朝とはこのようなことで覆されるものでは無いのだ。決して。
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「あれ、こっちだったか!また間違えた......」
朝方の廊下は人通りが少ない。皆、それぞれ食堂で食事をとっているか又は眠っているからだ。その廊下にぽつりと両手をぶらりとさせ頭を下げた姿勢のトニーがいた。彼の手にはハンカチが握られている。
綺麗に畳まれたハンカチを手に朝なことを思い浮かべた。
先程食堂に向かう途中である女子生徒に声をかけられたのだ。
「あの、昨日これをキングストンさんから借りたのですが返し忘れていたの。あなたはバルフさんよね?キングストンさんと仲がいいって聞いたから......」
返して欲しいのだとそのハンカチを手に握らされる。聞けば、彼女は礼拝堂にいた所ある事情からシドにハンカチを貸してもらったのだとか。話を聞いてあのシドがと驚くが彼が見て見ぬふりをしてそのまま踵を返すのも想像がつかなかった。あぁ見えて、彼は人を思いやる性格だ。彼女はシドの名前を知らなかったのだが、頬に聖痕があるということだけは見て知っていたのでそれを頼りに名前を聞いたのだと。自分で返しに行こうかと考えたのだが少し話した時に彼のことを怖がらせてしまったようで顔を合わせるのは気まずいのだと。そういえば、昨日の彼はハンカチのことを思い浮かべると狐に化かされたような顔をしていたことを思い出す。この事だったのかとトニーは納得した。トニーがそのような願いを断る訳もなく快い返事をしたあと直ぐにトニーはシドの部屋へと向かっていたのだ。
朝から廊下に立ち往生するとはついていない。昨日のこともあって少し風邪気味なのだ。朝食の後は授業まで少し時間があるから医務室にでも行こうかと考えていたのだが。まずは親友に会いに行かなくてはさっきとは逆の方へとトニーは足を進めた。確かこの辺だったという記憶があるのだが。幾つかの扉が並んでいる。
ふと、見覚えのある光景がそこにあることに気づく。以前もトニーはシドと共にシドの自室に訪れたことがある。あれは確か前の試験のときだ。ペンのインクが切れてしまって、シドに借りようと訪れた。扉をノックして出てきたシドは呆れてものも言えないって顔をしてたなあ。ブツブツと文句を言いながらもインクを差し出してくれた。そんなことを思い出しながらトニーはシドの寮室の扉をノックする。返事を待つことなく、彼はガチャリとドアノブを回し部屋へと足を踏み入れた。
「おい!どうして勝手に入ってくるんだ!ノックしたなら返事をまつのが常識だろう......。」
「......いや、お前に言っても仕方ないよな何度言っても治す気配が無い。」
彼はため息を零し、口では何を言っても無駄だと諦めこちらをじろりと睨むのだ。
トニーは俺たちの中なんだ別にいいだろ、と人の部屋であるにも関わらずずかずかと足を踏み入れた。
綺麗に整理された室内には物の置き場所が神経質に決められているんだろう。部屋の中で1番日の辺りがいいところには真っ白なシーツが敷かれたベッドが置いてある。既に制服に着替えこれから朝食に出かけるところだったんだろう。ベストを羽織りかけているシドがいた。
筈だった。
最悪な朝だ。完璧な朝など存在するはずが無い。完璧なのは、この世にひとつ。全知全能の神だけなのだと。それが嘲笑っているのだ。

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神経質な彼によって丁寧に置かれたその室内には真っ赤な血飛沫が描かれている。その血は天井に向かって水面に毛糸を浮かべたように線になって走っていた。真っ白なハズのシーツは日の出より赤い。幾ふさの葡萄を胸に潰したように白い肌には銀のナイフが突き刺さっている。その表情は穏やかに緩やかに笑みを浮かんでいた。
あぁ、神よ。どうか我らをお救い下さい?
馬鹿馬鹿しい。そう誰かが耳元で言った気がした。
-「そんなに神に願って、何から救われたいんだよ」
俺はある時、自分より少し背の丈が低いそいつにそう聞いた。彼は神を信じている。何かと自分の胸のロザリオを握っては祈りを捧げるのだ。
ふと彼にとって救いとは何を指すのか気になった。小さな疑問だ。別に、これと言って何のことも無い。
貴方は救われているかと問われて、戸惑う人間は自分は救われる必要があると思っていないんだと俺は思う。救いとを物理的な意味で捉えれば健康である程度経済的に困ることも無ければ必要とされることも無いだろう。しかし、致命的な欠陥をもち病弱な人間は別だ。自分の命に救いの恩情を求める。でも、俺が口にしたのはそういった類の救いの話ではなく、もっと根本的な意味での質問だ。それは言うなれば、魂の救い。悪しき心の持ち主は常に本能的な恐れを感じていつも精神的に逃げ惑う。それに対して正しい人間というのは力に満ち溢れている。ある種の人間は常に裁きに対して一方的な恐怖を抱いているのだ。それは神の怒り。そしてそれから救われようと解放されようと願う。何が彼を神に祈りを捧げるほどに苛み苦しめているのか。彼は一体何をそんなに怯えているのか。
その質問にそいつはこっちを見ることもせずまた自身のロザリオを強く握った。
「僕はいらない。救われて欲しい人がいるんだ」
そいつの睫毛が影を落とした。あぁ、それを隣人愛とは呼ばないんだろうな。それは、言うなれば_______。
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