episode.3 悠久の冷気を温めて

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「気持ちは晴れた?」
「少しはすかっとしたかな。」
「それは、よかった。」
「......ねぇ、もしかして。後悔してる?」
「いいや、少しも。」
「あなたは?」
「......聞くまでもないか。」


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「何から語ったらいいか......」
礼拝堂のステンドガラスからは光が漏れ無慈悲なまでに透徹であった。その光を受け礼拝堂の木製のカウチに腰をかけた2人の生徒がいる。夏だというのにカウチは乾きひんやりとしていた。1人はチョコレートブラウンの髪を肩まで伸ばした少女で悲しみや恐れ、そうした押し隠すことの出来ない幾つもの感情がべったりと顔に張り付き酷くやつれている。もう1人は男性の割には細身で華奢な体躯で髪は長く、雪のように真白な青年であった。彼の手には真っ白なハンカチが広げられその中には包まれたプレーンのクッキーが数枚ある。小さな体を椅子に張り付け自分の靴先を眺めている彼女とは反対に、男はその下肢を大きく広げ光の入り込む方に顔を向けていた。
彼女は池の周りを歩いていたところを学院屈指の問題児ハロルド・ドクトリクに運悪く、否運良くといった具合に声をかけられ流れるように言葉巧みにこの礼拝堂へと連れてこられていた。ハロルドの手には何故かハンカチに包まれたクッキーが偶然、運良く握られておりこれを餌に彼女は彼に付いてきたのだ。このクッキーは彼が長年敵視を向ける彼から何かと理由をつけて奪いとった物ではあるがハロルドは何としてもそんなことは認めないであろう。
「では、出逢いから。レディとシスターがどのようにして巡り会ったのか、そこから話して頂いても?」
ぱちりと片目をつむり彼女を見つめた。じっと靴先を眺め俯いていた彼女が榛色の瞳を細めゆっくりとまばたきを繰り返す。
酷く幻想的で、淡い夢のような日々を記憶を頼りに瞼に思い描いた。
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シスター・ウルスラは学院内における雑務を担う1人の修道女であった。厳格な信徒で清貧と貞潔の誓願の元に生活を送る模範的な人物だ。当時の彼女は学院内でも生徒が多く使用する寮のシーツの水洗を担当していた。日の高く昇らない朝方に汚れたシーツを木製の樽に石鹸と共に投げ入れ足の裏を使い器用に洗う。一日で1番日が高く上る時間にはシーツを日光に当て青空と深緑の元に白を彩る。シーツを乾かす間に祈りを捧げ、食事を摂る。自由時間を過ごした後に乾いたシーツを畳み部屋へとしまう。これが彼女の日課であり、神への清潔を示す最善の道であると信じて疑うことを彼女は1度もしなかった。
柔らかな微笑みを浮かべ、生徒との交流を求められれば期待通りの清廉な声で神を褒め讃えた。人当たりの良い彼女は誰にでも親切で慈愛を尊ぶ性格であったので多くの生徒から信頼を寄せられていたのだ。
チョコレートブラウンに榛色の瞳を輝かせた彼女もシスター・ウルスラを慕う生徒のうち1人であった。
ある時、彼女は1人身をかがめ神に一心に祈りを捧げていた。学院に入学し数年、家族とも友人とも離れ空白で透明な自身を神はその偉大な光で包み込み導いてくれていると信じていた。神に祈りを捧げれば何かから救ってくれると感じていた。何から救って欲しいというのか、それは途方もない期待で、無意味な祈りだった。今思えばホームシックとやらだったのかもしれない。初等部も中盤を迎えた年頃だったとはいえ、未だに学院には馴染めずに友人と呼べる人間も周りに作ることが出来ずにいた。自分にとって神への信奉を捧げることは一種の楔であり救いであった。大層な理由をつけたただの強がりとも。
言葉にならない寂しさを神へ祈りを捧げることで忘れることができると思っていた。木製のカウチはいつもほんのり冷たくて、腰掛けることが次第に怖くなっていた。ぎゅっと固く目を瞑り神に祈りを捧げる。いつしか緩く結び組んだ指は爪が肌にくい込み痛みを感じ始めている。
「貴方の手は酷く冷えていますね」
祈りを捧げていた手をそっと優しく生暖かい人間の手に触れられていた。きつく結んだ目をそっと開き、思わず差し込む明るい光に目を白くさせた。ステンドガラスから漏れ入る光はいつも彼女をきらきらと輝かせていた。その時も、シスターは光を受けその瞳を私と交差させ微笑み笑った。
「大丈夫、神は貴方を見捨てたりしません」
その言葉に救われた気がした。空っぽだった心に注がれたのは何だったか、いつしかカウチは人肌に温められている。
それからシスターは私の母となり姉となり友人となり先生となり恋い慕う人となる。何年も祈りの時間を共にすごし、言葉を交わした。たわいのない会話だった。天気がいいと日向ぼっこをしたくなるとか、甘いものをお腹いっぱい食べたいだとか。時には、食堂から盗んだクッキーを分け合い談笑もした。シスターの瞳から向けられる恵愛を精一杯に感じ取れることが透明な生活に色を指すような瞬間だったのだ。彼女の瞳を見つめれば嫌だったことも水に流れていくようにすっと外へと消えていく。心地よかった。彼女への感情を言葉にしろと言われれば何かと頭を捻るがそこには確かな愛と緩やかな時間を数年間過ごした2人の影があり記憶があるのだ。
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「この先も、ずっと彼女と過ごす日々をと願っていたかい?」
ハロルドは彼女の紡ぐ言葉に耳を傾けていた。真横に座る少女と話中のシスター・ウルスラもこうして言葉を交わしていたのだろう。ハロルドは神へ祈りを捧げない。それは無意味なものだ。その考え通り彼のロザリオは自室のデスクに長年眠ったままだ。しかし、自分が神を信じないからといって彼女の神を信じ祈りを捧げるその姿を嘲るようなことは彼は決してしなかった。
「......そうですね。でも、彼女はきっと分かっていたのではないでしょうか」
彼女の言葉に淀みはなく、澄んだ瞳は今までの鬱憤した悲しみを誰かに話し吐き出すことで澄み切って見えた。ハロルドは天を向いていた顔を彼女に向け、頭をひねらす。シスター・ウルスラは何を分かっていたのかと問う前に彼女はそっとその視線をハロルドに向けた。
「ええ、自身の死の予感を......」
シスター・ウルスラとは、神に仕えた純潔な修道女。件の事件の被害者である。
この礼拝堂の聖書台の奥に掲げられていた巨大な十字架に、まるで絵画の主君のように磔にされ死んでいたあの修道女である。そして、ハロルドの横に腰かけその修道女との思い出を語るその少女は彼女と最も近しい存在であった生徒である。
ハロルドは彼女の口からシスター・ウルスラという人物について知るべく言葉巧みに彼女の口を開かせた。手に持ったこのクッキーも彼女から話を聞くために用意したものに過ぎない。
「......それは初耳だ。シスターは自身の死を知っていたのか?なぜそう思ったのか、お聞かせ頂いても?」
彼は広げていた足を組み、彼女の話に耳を傾けることに神経を集中させる。なぜ目の前の少女がそのように考えたのか、彼はとても興味があった。ハロルドは思わず少女に圧をかけるように上半身をぐっと前に出しかけたが、あくまで紳士めいた行動をとるべく理性で押しとどめる。
「決定的な言葉を聞いたわけではありませんよ。数年間一緒にいたのです、彼女の些細な変化くらいには気づきます」
「いつも達観した視点からものを考える人ではありましたが、事件が起こる前の彼女はとても盲目で......。」
「心ここに在らずというか、とてもではありませんが酷く哀しそうだったのです」
そよ風が礼拝堂の広く開け放たれた窓辺から入り、同じように反対方向に位置する窓辺の出口から出ていった。彼女の髪の毛がそよ風にのる。シスターは酷く哀しそうだったと語る彼女もまた同じように哀しさを瞳に感じさせていた。彼女はその榛色の瞳をそっと閉じ、彼女と最後に交わした瞬間を思い出す。
「あれは、事件が起こる5日程前でした」
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その日、いつもと同じ時刻に変わらずに訪れた礼拝堂には少し先にやってきたのであろう彼女が1人静かにベンチに腰掛け祈りを捧げていた。
何故か彼女はこちらをちらりと見ることなくじっとどこかを見つめている。彼女の視線の先を辿ればそこには彼女の身長の2倍はあるだろう十字架が見える。彼女のどこか悲しげな瞳がまたその美しさを際立たせていた。
少女はシスターの横に人一人分程の距離を開けて腰を下ろす。それでも彼女はこちらをちらりと見ることもなく、礼拝堂の奥を見つめたままだ。
何か声をかけようかと、少女が口を開けた時未だにこちらを見ることなくシスターは口を開いた。
「私は私自身の幸せや救いを願ったことはありませんでした。いつも私の身の回りの人や物の全てに感謝をし彼らの幸せを願いました。そうして神に祈りを捧げることで私に全てをもたらした神に感謝を述べているつもりでした」
「あなたもその1人です。あなたは私にとって眩しく尊い存在であったのであなたと私が巡り会えたことに感謝を述べました」
「私はずっと神に身を捧げているつもりでした。祈りに見返りを必要としたことはありません。見返りを求めることは強欲です。過度な欲望は身を滅ぼしますから」
「節制に生きなくては。必要最低限のものを口にして生きていくのです。でも、隣人には自分が持ちうる全てを捧げなくてはなりません」
「こうした徳を積むことを主君だけは見ている。そしていつか私がこの人生というものから開放された時主君は私を永遠の園へと......」
「あぁ、なのに私は......」
次の言葉を彼女は口にしなかった。ゆっくりと動く饒舌な口は次第に言葉を紡ぐことを恐れていた。彼女の瞳はゆらゆらと揺れていて今にも何かがこぼれ落ちそうだ。
少女は彼女の強く組み結ばれたその手をいつか彼女が自分にしてくれたように優しく包み込もうと手を伸ばす。すると、シスターは首を横に振りこちらに顔を向け微笑んだ。
何を言ってもあなたに私の想いが届くことはないのかもしれない。既に届いていても彼女の意思はどこかで強く定まっているのかもしれない。
それから、5日ほどシスターは礼拝堂に訪れることは無かった。他のシスターに聞いても彼女がどこにいるか誰も教えてくれることはなかった。ただ単に知らなかったのかもしれない。彼女のいない礼拝堂に行くのが怖くて礼拝堂に立ち寄るのを私もやめた。
そうして、何日かたった頃に私の目の前に差し出されたのは1枚の号外新聞である紙切れと、あれから数年学院でできた僅かな友人たちからの噂話で聞いたこと。シスター・ウルスラが死んだことを知った。何度か他のシスターたちに彼女の葬送に顔を出したいのだと訴えたが誰も私の要望を聞いてくれることはなかった。
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「今日は風が強い、夜には少し荒れるかもしれないな。早く寮に帰った方が良さそうだ」
一通り彼女の話を聞いた彼はその表情をぴくりとも変えることなく立ち上がる。いきなり膝を伸ばした彼に驚いた少女が彼を視界に捉えた。ハロルドは手にしていたクッキーを少女の手のひらにそっとのせる。
「これは今日のお礼だ。君は今酷く落胆しているようだね。生憎そういったことには無縁だ。形だけのおべっかで慰めることもできるがそれは真摯に話をしてくれた君に失礼にあたるね」
彼はふむ、と顎に手を添え何かを考え込むような仕草をして見せる。少女は手渡されたクッキーを手にきょとんと間の抜けた顔を彼に向けたまま固まっていた。
「そうか、シスター・ウルスラは自身の死を予感していた......。君は彼女との最後の会話の中にそれを感じたという。」
息をするかのように彼の口からはペラペラと言葉が発されていく。風が彼の髪の毛をそよそよと揺らす。
「僕は未来も過去もさして気にしない。その時々を常に楽しみ息をしているからね」
彼もあの時のシスターと同じだ。こちらを一切垣間見ようともしない。彼のその瞳に浮かぶ感情から悲しみを感じないのがシスターとの違いだろうか。
「明日死を迎えると分かってしまっている人間が、日々の移ろいをどう感じるか。残された日々をどう過ごすべきなのか。少なくとも神なんかには決められなくもないな」
ハロルドの乾いた笑いが礼拝堂に響く。カツカツと靴を鳴らしながら彼はひらりとブレザーを翻しその足を礼拝堂の出口へと向けた。そのクッキーは少し甘すぎると彼は最後に残しこちらを1度も振り返ることをしなかった。
1人残された彼女はクッキーを手にし、開けられたまま閉められることもなかった扉の外を呆然と見つめていた。先程から自身の髪を撫でるように吹くこの風のような人だった。彼を掴むことはできないのだろうな、と彼女は考えて礼拝堂を後にした。
段々と風が強くなっている。彼が言ったように今夜は少し荒れるかもしれないと、少女は足を早めた。
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時刻は午後11時。日はとっくのとうに沈みきって空には星が幾つも浮かび上がり天文塔からはさぞ美しい景色が眺められる時間帯だ。だがしかし、学院の窓は固く閉められており窓には鍵が掛けられている。それでも、窓はカタカタと音を立てすきま風がひゅーと音を鳴らしている。現在、外の天気は大荒れであった。日が沈みかけた頃から風が強さを一段と増し、どんどん黒い雲に空が覆われていった。ほとんどの生徒が夕食をとり終えた頃には雨と風が酷く、時には雷もなっている。
そんな最悪の状況で、寮の談話室にはちょうど14人、件の聖痕をもつ者全員集まっていた。
「ヘドニズムだね。切り裂き魔にとっての快楽は殺人そのもの、あれの犯行には私怨が絡まない。死のみを求める亡霊だよ......」
切り裂き魔、それはロンドンを騒がす凶悪犯罪者の通称である。ロンドン中の市民に恐怖と悲鳴をもたらし現在もその全貌は掴むことは愚か正体は霧の中に隠されたままだ。その言葉について13人の生徒たちに語ったのはリュン・フィーであった。彼女は腕を引き裂くように現れた自身の聖痕をなぞるように布の上からそっとその痕をなぞった。夜だからだろうか、その視線にはどこか薄暗く、普段の彼女からは感じられない弱々しさを感じた。リュンがそう語る周りには生徒たちが談話室のソファにそれぞれ座っている。部屋はオイルランプの暖かな光によって照らされていた。
14人の生徒がこうして、この談話室に集まるまでの経緯について、話を遡るにはまず学院にはびこるとある噂話が元にある。
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先日、シスター・ブラウンの頼みを聞く代わりに物置の鍵を手に入れ芋づる式に森への鍵も手に入れることができたが、同時に新たな情報を手に入れることができた。マシューたち一行とは別にシスターブラウンから物置の鍵を借りた生徒がいるというのだ。彼女は妙齢であり、鍵を貸し出した生徒についてよく覚えていないと語る。
これまで事件の犯人について、挙げられるのは外部の人間か内部の人間かであり特定は未だにできていなかった。外部の人間が犯人であった場合、学院への侵入経路は森を通った道が1番確実である。他の道は全て監視されており簡単に侵入することができないほか、実際にそのような侵入者がいたという話は一切報告されていない。但し、森には中からしか開けることが出来ない鍵が掛けられている。その鍵を学院内の誰かが近いうちのいつかに手にした経緯があるのだ。内部の人間が外部の人間を誘導したという線があがるのは必然であった。
そうした考えに至った時、ある2人の生徒が顔を暗くさせていた。シド・キングストンとリュン・フィーの2人である。彼ら2人は学年こそ違うが学院内に転入したのはちょうど同じ時期である1年前という時期であった。
ロプツォルゴ学院は一切外との交流を隔てている。生徒の家族とでさえも連絡をとることを許されていない。最低限度の外の情報しか入ることがないため、生徒は世間の移ろいには鈍感である。ただ、この2人に至っては別であった。彼らは1年前まで文字通り学院の外にいたのだ。ここにいる誰よりも、現在1番に世間の事情に精通していた。そしてその彼らが口にしたのは切り裂き魔に関する噂話だったのだ。
「切り裂き魔......?まぁ、多少なりともその言葉は聞いたことがありましたが随分と詳しいのね」
カタリナはその眉宇をさらに曲げて難しい顔をしている。常に眉間にシワを寄せているが彼女は決して不機嫌と言う訳では無い。生まれつきそういった所があるだけなのだが、それを知らない多くの生徒は彼女に壁を感じてしまうことも多い。真面目で心根の穏やかな彼女の事なのでそのような残虐な人間の行いは到底許せるものでは無いのだろう。
「1年ほど前まで違うハイスクールに通っていたんです。新聞にも多く取り上げられていたから知っていて当然ですよ!」
リュンは立ち上がり、右手の拳をぎゅとにぎり宙を殴りながら早口でまくし立てる。彼女もカタリナ同様にそのよう事件が横行していることに多少なりとも腹を立てているのだろうか。
「まぁ、学院では外の新聞なんて中々入ってこないから知らなくて当然だろうけど」
リュンの言葉に後付けするように言葉を発したのはリュンと同じように1年前に編入をしていたシドである。彼も切り裂き魔の噂についてはリュンと同じ程度に詳しく知っていた。
「これだからイギリス人は......!どんな教育を受ければそんな野蛮な人間が生まれるんだか」
はっと鼻で笑う彼女の言葉を噛み砕くならお里が知れるといったとこらだろうか。エイダのイギリス嫌い今に始まったことではない。こうして、イギリス人が起こした事件はイギリス人が解決しろとでも言いたげに今も自分が協力する姿勢を一切見せずにいる。そもそもここにいる14人の中で彼女が聖痕をもっていたことを知っていた人物などいるのだろうか。神ではなく自身の力に重きを置く彼女のことだ、きっと誰かに聖痕のことを語ったことなど1度もないのだろう。
「大体、なんでこんな夜中にワタシが呼び出されないとならないんだ?まさかこのくだらない切り裂き魔の話をするためだけに呼ばれたわけじゃないよな」
エイダは鋭い視線を生徒会の代表であるキャロルに向ける。彼女が呼び出されたのは生徒会のキャロルとマシュー、リュンに半ば強引にここ談話室に連れてこられたからだ。尚、他の生徒たちも同じように生徒会の生徒に連れられてきたのだろう。だからといって、まさか生徒会嫌いのハロルドまでいるとは思っていなかったのでエイダは多少驚きを隠せずにいた。
視線を向けられたキャロルと言えばそのまま余裕たっぷりの笑顔をエイダに向ける。睨まれたとは全く思ってもいないという顔にエイダはむかっと腹を立てるが彼はそういう性格であるために押しとどまった。その様子を見てカタリナが深いため息をついている。
「こんな暗い時間に呼び出したことは謝るよ。そうだなぁ......どこから話せばいいか」
当のキャロルが呑気にも頭をひねらせているのを見てマシューが苦笑いを零す。彼の頭は常に花畑で平和ぼけしているのだ。決して頭が悪いわけではないが、独特のペースでもって人を混乱させるのも少なくない。
「そう、簡単に言うと幽霊が出るらしいんだ!」
「ゆ、ゆゆゆゆ幽霊!?」
「ゆう、れいですって......!?」

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どん!と効果音がつきそうな勢いでキャロルが幽霊という言葉を出した途端たじろぐ生徒が2人。2人は幽霊という言葉を聞いた途端に冷や汗をダラダラと流し始める。固まって動かなくなったシドを隣にいたリュンが指でつついているが彼は一切動かなくなってしまった。その反対ではカタリナがその眉間に先程よりも酷くシワを寄せている。何やらブツブツと幽霊なんていないと唱えているがその手はカタカタと震えている。氷のような絶対零度で周りをひやりとさせる彼女の弱点はそういったホラーの類である。
一方で、ブレットはキャロルの言葉に目をきらきらと輝かせていた。未知なるものへの飽くなき探求に彼は心を踊らされているのだ。その横でぐーすかと鼻ちょうちんをつくっているラムダの肩をゆさゆさと譲り絶対に俺らで幽霊を捕まえようなどと意気込んでいる。巻き込まれたのが俺じゃなくて良かった、とマシューはホッと胸を撫で下ろした。
「それって、あれですよね!最近学院中で噂されてる怪しいヒトカゲってやつですよね。夜中に物音がしたと思って自室の扉を開けたら遠くで人影が動いてたってみんな噂してたぜ!」
へへんとトニーが得意気に話しているが、実際にこの噂話は新聞サークルによって記事にされたこともあり多くの生徒に広めまっていた。不特定多数の生徒が物音を聞き、人影をみたという証言をしているらしい。
「うーん、それは可笑しいですよ!事件が起こってから夜の外出は厳しく叱られるようになりましたしシスター方も流石に寮までは見回りに来ないはずです」
ドロシーがアホ毛をひょこひょことさせながら人差し指を宙に掲げそうトニーの言葉にそう反対する。その反対の腕はマシューの腕を絡めぎゅっと離さない様子を見ると彼女も幽霊という言葉を聞いて少し恐れを抱いているようだ。
「あぁ、ドロシーの言う通りなんだ。だから、まず生徒の人影ではないと俺たちは考えた。......それこそ幽霊ではないとすると」
マシューは自分の腕にしがみつく妹の頭を落ち着かせようとぽんぽんと頭を撫でながら言う。その表情は強ばっていた。
「そうか、君たちはシスターを殺した犯人がまだこの学院内に潜んでいるかもしれないと考えたんだね。それで僕たちにその人影の正体を掴めってわけか」
微笑みを浮かべながらマルセルが状況をいち早く理解する。彼は普段から成績も良く頭の回転も早い、どこかの彼女よりもよっぽど生徒会役員に抜擢されるべきだが彼のことなので面倒くさいだとかいう適当な理由もって断ったのだろう。
「それで、切り裂き魔の話とは何が関係あるのかしら?」
どうして夜間外出が禁止されているこの時間帯に14人の生徒たちが集められた理由に関しては理解したが、ディオネはリュンが切り裂き魔についての話をしたこととの関与性について頭をひねらせていた。一体、夜間に現れる幽霊、人影の噂と切り裂き魔の噂がどのように関係しているというのだろうか。
「ベック先輩方は、外部の侵入者でこの事件の犯人像として切り裂き魔の犯行という可能性を視野にいれたのではないですか。」
「話を聞く限り、その犯人は快楽犯のようですし自身の犯行を新聞社にも送りつけわざわざ大袈裟に広めているようですね。このロプツォルゴ学院で切り裂き魔の事件が起こったとされればまた犯人の名声を高めることになりますね」
ディオネの謎を解いたのは彼女の片割れであるテティスだ。彼の言葉通り、リュンの話を聞いた生徒会の一行はその線を視野に入れ、人影の正体が切り裂き魔であるという可能性を考えたのである。犯人は連続殺人犯であり、自身の犯行が世間に明るみになることを楽しんでいるような人物であった。シスターの次となる被害者がここ学院で発見される可能性も低くはない。そうとなれば、早急に人影の正体を突き止める必要があると判断したのだ。
「特別に夜に学院内を探索することを司祭様から許可して頂いたからね、全員でその人影の正体を突き止めようと思って!もし一般生徒だとしても、夜間の外出はあまりおすすめ出来ないし注意したいところだからね」
そういうことだ、とキャロルは両手をパチンと鳴らし立ち上がる。
暴風が吹き荒れ雨が窓をノックしている。その中でたった1人だけが黙念として考えをまとめるように部屋の片隅で動かずじっとしていた。
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「僕は絶対に行かないぞ、誰が好き好んでわざわざ夜の学院を回らないといけないんだ」
バラバラと3つ4つに分かれてそれぞれランプを掲げながら談話室を出ていったあとに、シドはソファから動くことなく固まっていた。その顔には冷や汗が浮かんでおり微かに青白い。
「おい、ワタシも行くなんて一言も言ってないぞ。大体ワタシはオマエらに協力するつもりは鼻から……」
「まぁまぁ!2人ともそんなこと言わないで!俺も夜の学院は少し怖いけどこれも学院の安全のためなんだ」
「いやだから!なんでワタシが生徒会の真似事なんてしなきゃならないんだって話だ!」
どかっとソファに足を広げて座っているエイダに残って動こうとしない2人を説得するようにキャロルが声をかけていた。
そのエイダの横には同じように不服そうな顔をしたハロルドがいる。
「まったく我が同士の言う通りだ、なぜ僕が生徒会なんかの手伝いを?」
ハロルドは鋭い視線をキャロルに向けるがキャロルはまったく表情を帰ることなく苦笑いを浮かべていた。
「まったく君たちのお粗末な推理には失望するよ、なぜ君たちは………」
「…………まぁいい、僕には関係の無いことだ。こんな茶番には付き合っていられない。何か重要なことが分かったのかと思ったがここに来る必要もなかったみたいだ」
ハロルドはソファの肘掛に頬杖をつきふいと窓の外を眺めた。窓には雨が叩き付けられており、かたかたと揺れている。彼は何か考えがあるようだが、それを口にする気はないようで先程からずっと考え込んでいるようだ。いつも饒舌な彼だったが今回ばかりは口を結んでいる。
「他の皆は仲良くやってるんだろうか」
談話室に残ったのは運悪くこの4人であった。まったく動き出そうとしない3人をキャロルが促しているもののあの場にいた誰よりも御しづらい連中が集まっている。皆がまた戻ってくるまでもしかしたらずっとここに往生する羽目になるかもしれないとキャロルはため息をこぼした。
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学院の廊下には額縁が飾られその絵は大抵が宗教画、それか学院に縁ある貴族たちが寄付したものだ。それらをランプで一つ一つ照らすように回っている4人がいた。学院内はとうに消灯されていて灯りは手元のランプのみ、先頭の1人がランプを掲げている。
「夜の学院は雰囲気がありますね」
テティスはランプを手に持ち後ろを振り返りにこりと微笑んだ。その視線の先にはリュン、トニー、続いてカタリナがとぼとぼとゆっくりとした足取りで跡を継いていた。1番後ろのカタリナに至っては周りをやけにきょろきょろと見渡し明らかに挙動不審である。
「もしかしてリナ先輩ってこういうの苦手なんですか?」
「えぇ!??カタリナさんって苦手なものあるんですか?!」
しんと静かに歩いているカタリナの前にはやけに騒がしいリュンとトニーが大きな声で話している。あまり大声を出すと他の生徒に迷惑がかかるといつもならカタリナが真っ先に口酸っぱく2人に苦言を零している所なのだが、今の彼女が注意をする余裕もなさそうだ。弱々しい声で否定の言葉を述べているのが辛うじて聞こえる。カタリナの代わりにテティスが2人に優しく声の大きさに注意するように言っているが何故か数刻後には煩くしている。テティスはカタリナに気の毒で胸が塞がれるような思いを抱き、2人の注意をなんとか逸らそうと話題を振ることに集中していた。
「でも意外でした!テティス先輩はてっきりディオネ先輩と一緒に回るものだと思ってたんで!」
やけにキラキラとした尊敬の眼差しをテティスに向けトニーは声をかける。テティスは飾られた額縁に対しての感想を述べながら歩いていたのだがトニーはまったく聞いていなかったようだ。トニーのその両手は忙しなく上下にブンブンと音を立て大きく動かされている。
傍から見るとトニーはテティスを随分尊敬しているようだ。一方のテティスもそれを微笑ましく思っているのか柔らかく目を細める。自分の振った話題に全く関心を抱いていない点について目を瞑ったようだ。
「あはは、僕たちもずっと一緒にいるという訳では……。なるべく男手は分散した方が安全ですし」
紳士的な返答を述べるテティスを一層目を輝かせてトニーが仰ぎ見る。ぐっと拳を握りわなわなと震わせ感動している。あまりの大袈裟な表現に当のテティスも苦笑いを浮かべているがトニーはまったくそれに気づく様子もみせずに唇を噛み締めている。
「うおー!さすがテティス先輩だ……!」
「うんうん、トニーもテティスを見習いたまえ」
先程までカタリナにしつこく幽霊が怖いのかと質問攻めにしていたリュンがくるくるとこちらに足を運ぶ。腕を組み何度も頷いているが、そう言うリュンもテティスを見習うべきである。リュンから解放されたカタリナは絡みついていたリュンが離れたことでほっとしている反面不安そうである。相変わらず周囲を十分に警戒しながら後ろを着いて歩いている。
「でも、トニーの言う通りディオネとテティスが一緒にいないと変な感じ?物珍しい光景だね」
ランプを手にしたテティスの周りをくるくると慌ただしく動きながらリュンが値踏みするようにテティスを見つめている。
「二人は仲良しだからさ」
飛び跳ねるようにしてリュンが廊下を進み、こちらを振り向いてそういった。あんまり離れると危ないですよ、とテティスがランプで道をそっと照らす。廊下はずっと先まで続いていて、その先は暗闇に包まれていた。
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「お二人は仲が良くて羨ましいです!でも、私たちだって仲良しなんですよ!ね、兄さん!」
ドロシーは楽しそうに声を上げながらマシューの横で兎のように飛び跳ねている。腕をマシューの腕に回してくっついているのでマシューはランプを持ちづらそうにしているがその顔は満更でもなさそうだ。
テティスとディオネは双子であり、仲がいいのは学院中の誰もが口を揃えて言うことだ。だが、こちらの兄妹も相当仲がいい。ディオネとテティスのようにいつも一緒にいる訳では無いが、結構な頻度で一緒に歩いている姿が見られる。大抵はドロシーがマシューに愚痴愚痴と何かを叱られていることが多く、マシューが妹想いであることは明らかだ。
「おい、ドロシーあんまり引っ付くな!危ないだろ、ランプの火があるんだ……」
マシューの手にはオイルランプの火が灯されていた。暖かな光が2人を包んでいる。
マシューは目を細めドロシーからその火を遠ざけた。彼にとって彼女は本当に大切なものなんだろう。どんな危険からも彼女を守りたいのだろう。それはマシューの瞳をみれば直ぐに分かることだった。とても優しい目をしているからだ。そしてその瞳に映る彼女もまた、兄を酷く想っているのだろうことが分かる。
「お前、制服を着崩すなっていってるだろ。ほら、貸して」
そう言うとマシューはそっとランプを手放し、ドロシーの形の崩れたリボンをキュッと結びなおした。

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彼女はそれをなすがままにさも当然のように何も言わずに受け入れている。兄さん、ありがとうと微笑めば気をつけろよとマシューがドロシーの頭を割れ物にでも触るかのように撫でる。その光景をディオネは優しく見守っていた。
「ふふ、本当に仲がいいのね」
ディオネがくすくすと小さく笑う声が廊下に響いた。それに気づくとマシューは頬を染めて変なとこ見せたなと照れくさそうに頭をかいた。そのままマシューはディオネからドロシーに視線を向け、お前ももっとしっかりしろとドロシーに指を向け母のように叱り始める。
「あぁ、うちの兄さんは口うるさいんです……。テティスさんはディオネさんにこんな風に叱ったりしませんもんね。羨ましい」
ドロシーがマシューの口うるさい言葉に耳を塞ぎながら逃げるようにディオネの傍に駆け寄った。毎度毎度似たような内容で叱られているのを見るが、彼女は反省する気はないのだろうか。マシューもさぞ大変だろう。
「ふふ、そうねぇ。私たちあんまり喧嘩もしたことが無いから」
ディオネは頬に手を添えると目を瞑りテティスとのことを瞼に描く。そのどれもが彼女にとっては大切なものだ。彼女は彼のためなら自分の利益を顧みず身を捧げることも厭わないのだろう。はなから彼女にとっては自分の利益が彼の利益に繋がっているのかもしれない。
ディオネがテティスの自慢をつらつらと話し初め、果てにはテティスの幼少期の話でドロシーと盛り上がり始めている。そんな情報が!と喜んでディオネに頷いているドロシーをみてマシューはほっと息をついた。先程まで怖がっていた様子だったのが心配だったのだ。暗がりでメモができないことを悔しがる妹の姿をみてマシューは薄く微笑んだ。彼のいない所でこんな話を聞いてもいいのだろうかとその笑顔は多少ひきつれているが、マシューは2人が怖くないように2人の前を歩き道を照らし歩く。
「……………」
「えぇ、羨ましいのは……」
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「ラムダ!マルセル!幽霊が出たら直ぐに教えて!俺、絶対に幽霊を捕まえたいんだ!」
「ふぅん、それはナゼ?」
「アイツらさ……壁とかすり抜け放題だしコツとか聞きたいなって……」
「へぇ、それで壁をすり抜けられたらどうするつもりなの?」
「うん、食堂とかこっそり入ったら色々便利かなと思ってさー!いや、盗み食いとかするつもりはないんだけど。まったくない。」
「アラ、幽霊は捕まえられないんじゃないカシラ」
ランプを手にしたマルセルの隣にはブレットがそのブレットの横にはラムダが、3人は横並びに廊下を進んでいる。ブレットがどしどしと足を進めるためほか2人は少し早歩きで彼に続いていた。

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ブレットは2人の手をひいて廊下を突き進むので不思議とあまり恐怖を感じることも無いのが救いだ。ラムダがブレットに手を引かれていないほうの手で眠たそうに目を擦り合わせている。
「ラムダ寝るな!一緒に幽霊を捕まえるって約束したよね」
その様子をみてブレットがラムダの肩を強くつかみがしがしと横に縦に振り回すのでラムダは小さな悲鳴を上げている。しかし、この光景を見るのも珍しいことでは無いためマルセルはニコニコとその様子を伺っている。ここにキャロルやマシューがいればブレットを叱って止めに入っていただろうがその人物はいないためブレットがやりたい放題している。
先程から廊下を早足で歩いているため、それなりに歩き回っていたはずだが怪しい人影というものも見当たらない。騒ぐ2人を他所にマルセルは辺りを見回してみるが、変わった点といえばいつもは昼間に見ている景色が夜になると少し不気味に感じる程度だ。今日の収穫は薄いだろうな、とマルセルは廊下の燭台にたまる埃を払い除けながらぼうっと考えている。
「 きゃあああああああ 」
すると突然遠くの方から誰かの甲高い叫び声のようなものが聞こえ3人は少し浮き足立っていた歩みを止めた。
ブレットにどれだけ揺さぶられても動じなかったラムダもその声に目が冴えたようだ。
「ブローリー………今の………」
ぎゅっとブレットの制服の袖を引っ張り、声の聞こえた方にラムダが振り返る。不安そうな顔をしたラムダをよそにブレットだけは目を輝かせて嬉しそうにしている。
「幽霊だ、絶対に幽霊だ!!」
ブレットはランプを手にしていたマルセルからそれを無理やり奪い取り、いきなり走り出したと思えば廊下の先へと1人で行ってしまった。遠くでユラユラと暖かい光が見えるものの、先程よりずっと暗くなった廊下にぽつりとマルセルとラムダは取り残されてしまっていた。
マルセルは突然のブレットの行動にぽかんと口を開けていたがはっとして直ぐに声を出して笑い出した。遠くからは2人とも早くして!とブレットの声が聞こえる。行こう、とマルセルがラムダに声をかけブレットの向かった先へと追いかけた。
少し不気味に見えた廊下も何故かランプの光を灯せばその恐怖も薄れるような気がした。ブレットはランプを振り回しているので早くそれを渡してもらわないと幽霊所では済まされない話になりそうだ。あぁ、そうだいつかもこうやっていた。
__________
一方、その叫び声の持ち主はブレットの想像するところ、渇望するところの幽霊などではなく生徒のものであった。廊下中に響き渡るほどの声を出す失態など到底考えられない人物のものである。
「……い、いま……!あちらで……!」
カタリナだ。
「人影が……!!!!!」
彼女は震える指先で廊下の先を指す。それは共に進んでいたテティスのランプの先、二手に別れた廊下の方だ。廊下の先には階段があり人影がその階段付近に確かに見えたのだとカタリナは腰を抜かしている。リュンはカタリナが腰を抜かしてわなわなと座り込んでしまったところに駆け寄り大丈夫ですかと声をかけていた。さすがの彼女も怖がっているのかその手は微かに震えているようにも見える。
「私のことはいいですから、はやく後をおって……!」
本来の目的は人影の正体を突き止めることであった。彼女はぎゅっときつく瞳を瞑っているがトニーとテティスに人影の跡を追うようにと指示を下す。こんな時でさえ彼女は忠実に学院の安全を優先するのだからその態度にはほかの3人もも感心せざるを得ない。テティスがせめて明るい場所にいて下さいと2人を明かりのある部屋へと案内しランプを手に持ち直ぐにカタリナが人影を見たという方へと急いだ。
「直ぐに戻りますね」
テティスは安心してくださいと、微笑みを浮かべるがその表情は少し強ばっているようにもみえる。トニーもその横で強く頷いているが緊張した面立ちだ。部屋にはカタリナに付いているリュンを残してテティスは扉をそっと優しく閉めた。
__________
暖かいミルクに蜂蜜が注がれそれをくるくると金のスプーンで掻き回す。辺りにはふわりと優しい香りが漂っている。
談話室にはマシューがいれたホットミルクが人数分のカップで用意されていた。
「それで、人影の正体は掴めなかったんだね」
「うぐ、面目ねぇです……」
トニーは背中を小さく丸めるようにしてキャロルの言葉に落胆する。相変わらず敬語が下手くそでいつもならカタリナ辺りに注意を受けているところだがその彼女は先程から消沈しているのか差し出されたホットミルクを大人しく飲んでいる。じっと真っ白なミルクからゆらゆらと波を描くように天井に向かう湯気を見つめている。キャロルがそんなカタリナの横に座っていた。
あの後、廊下の先をテティスとトニーが向かったのだが人影の正体を見つけることはできずに終わった。途中、叫び声をきいて声のする方に向かっている途中だったブレットたちに出くわし合流したものの、その正体を見極めるまでに至らなかった。結局、5人はカタリナとリュンの待つ部屋に向かった後に談話室に向かうことになったのだ。部屋に向かった時には2人の顔色もだいぶマシになっていたが、室内に入った時にはしんと静まり返り時計だけがチクチクと音を出していた。
一方のキャロルたち一同は談話室に立ち往生することになりハロルドは早々に自室に戻ってしまっていた。彼が扉に向かう際、すれ違った時にとてもでは無いが苦しそうに胸を抑えていたのが気がかりだが何か嫌なことでもあったのだろうか。後から声をかけた方がいいかもしれない。ハロルドが出ていくとエイダも直ぐに自室に帰ってしまったため、部屋にはキャロルとシドだけが残り他の生徒が戻るのを待っていたのだ。シドは終始申し訳なさそうな顔をしていたので、本当に怖がっていただけで2人とは違い協力を一切しないつもりはなかったのだろう。ちょうど短い針が2回りするというところでマシューたちが談話室に帰ってきて、そのすぐ後に他の数名も戻ってくることとなったが有益な情報は何も得られないという結果に終わってしまった。
「あぁ、ごめんね!そんなつもりで言ったんじゃないんだ!」
キャロルがわたわたとトニーに謝っているが、自分の不甲斐なさにトニーは眉を八の字にし心の底から申し訳なさそうにしている。その姿をみてさらにキャロルが慌て出すのでキリがない。他の生徒も状況を聞いて、眉をひそめている。カタリナの見間違いということも考えられたが、後から話を聞くと共に居たリュンも廊下の先に走っていく人影がちらりと見えたと話した。何にせよ、夜間に学院の廊下を出ている人物がいるというのは間違いなさそうだ。それが、外部の人間なのか。いずれにしてもこれからより慎重に調べていく必要がありそうだ。
「今日は疲れただろ、片付けはしておくからミルクを飲んだら自室に戻るといい」
マシューはカップを片手に廊下に繋がる扉に手を向けた。いつの間にか雨はやんでいたが霧が立ち込めていて酷く不気味だ。ポツポツと屋根から滴り落ちた雫の音がする。
「最悪だ……」
誰かがぼそりと呟いたがそれも雫の音にかき消されて誰の耳に届くこともなかった。
夏だというのに気温はいくらか冷たい。時期に秋が来るのだろう。
震える体を癒すように二の腕を摩った。




切り裂き魔の噂

共有者 リュン シド

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