episode10 おやすみ、月の女神様
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一瞬時が止まったかと思った。

ただ子供たちの目の前には気が狂ったように嗤うセレーネの姿が見える。
何を笑ってるの、この状況で何がそんなにおかしいの。

聞ける者は誰いなかった。それよりか、彼女の狂気に呑まれた瞳はもう誰も写してはいないようだった。

静寂の中に響き渡る笑い声の中、彼女がそっと手を伸ばす。その仕草がまた随分と美しい所作でゆっくりと時が流れ出していく。
何本も並べられた銀に光るそれは見覚えがあった。







「あぁ、これで......」

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シスターの胸に刺さっていたあのナイフと同じ物が手を伸ばした先にある。彼女はそれをあろう事か、自身の胸に突き刺すように向けて。それでもなお、彼女は笑っていた。

セレーネがこれから何をしようとしているのか、誰もが理解出来ずにその場に観客のように佇んでただ見ていることしかできなかった。

実際なら数秒もかからなかったであろうその行動がやけに長くゆっくりと感じたのは何故だろうか。ただ、自分の体は地面に縛り付けられたように動かなくて思考に身体がついていかなかった。

ただ1人を除いて。





「やめろ!」




「セレーネちゃん!何しようとしてるんだ!?君は......!」



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咄嗟にナイフを掴んで離さないその手を空でぐっと握り止める。

それは彼女よりいくらか小さい少年だった。

思考よりもまず先に身体が動いたのは、他の子供たちよりも常に死と隣合わせの状態に身を置いていた彼ゆえ。

自暴自棄になり自身の命さえ落とそうとする彼女のその穢れた手をまた自分の穢れた手で止める。セレーネが抵抗しその手の中でもがこうとする。きらきらと銀のナイフが光っていてそれはワルツの踊りのようだった。

「.........離してッ!」

叫んだ声が地下室に木霊して耳がきんと痛む。そして、彼女のナイフを持つ手を抑えたガルシェを酷く睨みつけて言った。

「……」

「これは償いよ」

「私たちのような罪人が!これ以上!この世界を汚すことがないように!」

今すぐその身を神にさしださなきゃ。

乱れた髪が彼女の顔にかかりその表情を隠していた。ただ最後にそう言った彼女の声はわずかに興奮し震えていた。

「き、君が……」

君が悪人なわけないと言い切る事が彼にはできなかった。彼女のことをそう思っていたわけじゃない、ただ自分の胸に手を当ててなにもやましい事がありませんと神に誓うことが自分にできたのか。彼女に赦しを与えるような高尚な人間であるか。それだけが心にナイフを突き立てていた。

彼女の手を、ナイフが握られたその手を、

止める。ぎゅっと掴んで離さない。

彼女のことを止めることくらいせめて赦してくれ。強くそう思った。心からそう思った。彼女がなんと言おうと俺は……。

あぁ。そうよね。

ガルシェの神妙な顔つきをみて、妙に落ち着いた仕草でセレーネはやっとナイフを握る手を緩めた。その行動にガルシェがはっと顔を上げ彼女のことを見る。思いとどまってくれたのだろうか。

「ガルシェ、そんな顔しないで」

セレーネはナイフを握った手とは反対の空いた手でそっと彼の頬を撫でた。あの時、シスターがいつもしてくれたかのようにそっと手を滑らせる。こつんとおでこを合わせて彼の目を見て微笑んだ。

「貴方にそんな顔させるつもりはなかったの」

彼女はそう言いながらその手を動かした。

ナイフを彼の手に上書きするように。
その手にナイフを。

ナイフというのは随分と手に馴染む。自分の置かれた環境のせいだったのか、それは彼女の体温で金属が少しぬるく温まっていた。

そんな事目の前の彼女の真っ直ぐな瞳を見つめながら考えていた。

魔法にかかったかのようにその先の思考を停止させられる。女神の視線とはこうも人を惑わすのだろうか。それとも彼女は女神の名を被ったメデューサだろうか。

「でもね」

「どうか、分かってちょうだい」

「もう私には何も残ってないの」

あるのは、その見に刻まれた浅ましい聖痕だけよ。

彼の手をひいて、そっと自身の心臓に突き刺した。

冷たい、そう思った。

金属が私の内側をみちみちと支配していくのを感じる。初めは氷のように冷たかったそれも私の熱にやられて酷く熱く突き刺さった部分は焼かれたように傷んでいく。

それでも腹の底から笑いは止まらなかった。何が愉快なのかは分からない。この残状が酷く滑稽に思えたからだろうか。

最後に目に映ったのは、ガルシェの顔だった。

彼の手には私を突き刺した生々しい肉の感触でも残っているのだろうか。酷い顔、そんな顔をさせるつもりはなかった。

なんてこれも酷い嘘ね。
優しい貴方がそんな顔をしないはず無かったのに。
勇気が欲しかったの。
身勝手な私を赦して。

うつらうつらとしてきた意識の中で最後の力を振り絞って彼の手を、私に突き刺されたナイフが握られたその手を今度は自身から引き抜いた。

あるのは痛みだけだったけど、それが唯一の救いのように思われる。

血飛沫が傷口から上がっていき、彼の手にも顔にも、私の血が飛び散ってついてしまった。彼は赤が似合うのね。

「……あり……う」

ひゅっと息がなって、口から吐いた音は言葉にならずに浮かんでいった。真っ暗な世界が私を待ち受けているのか、それとも真っ白な世界かな。

なんて考えて目を瞑った。
もう二度と目覚めることがないように。
この世界に生まれたこと、希望を見出して明るい明日を願ったあの日を恨んだ。
自分が恥ずかしかった。

神はいたのね。

最後に息を吐いた。

空気を汚染することしかできない自分にはやっぱり、何もなかった。



____________





夜が来るたび、思うことがあった。

私はどうしてこんなにも醜い存在なのだろう。

隣のベットで眠っている彼が、真っ直ぐな瞳を向けて私を見る度に恐怖で慄いたことが何度だってあった。

その度に自分の存在が酷く汚れて感じるのだ。

口から吐いた言葉がいつか泡になって消えてしまえばいいのに。
そう思って言葉が闇に消えていった。

私がどれだけ心から望もうとも叶うはずのない願いだけがそこにはあって。
空っぽの鳥籠の先には窓から月が見える。

いちばん愚かなのは誰だと思う。
その答えを私はとうに知っていたはずなのに。

シスター、貴方がその微笑みを私に向けた時から。
貴方が私の救いになったの。
貴方が笑う姿が私を癒していくのよ。

だから、彼女が悲しまないように私は従順な信徒を演じたの。

神様にお祈りするなんて、本当は滑稽だと心の中で嘲笑いながら貴方が喜ぶとおもって。

最後まで、鳥籠に入ったままだったのは私たち。

ごめんね。本当は言いたかった言葉があったけど。

ありがとう。二度と言えない言葉だったのに。

………。こんな私じゃ言っちゃいけない言葉があったの。

あぁ、神様は本当にいたのね。
あの時神様のことを信じて熱心にお祈りをしていればこんなことにはならなかったのかしら。

結局、無様な姿を晒すだけの醜い私を神様はずっと笑ってたのね。
今になって溢れ出した想いが私の胸を満たしていく、
けれどそれはずっと前から溢れ出ていて見ないふりをしていただけのものだったの。
最後まで自分のことしか考えられなかった。

愚かな私が恥ずかしい。
これで良かったの、痛みが救いに変わるような気がしたから。
許されたかったの。

もし生まれ変わったら……。私……。

今度は、もっと、人を大切にしよう。

だから、今日はもう眠るよ。

おやすみって誰かの優しい声がした気がしたの。

next………































彼女は傲慢

貴方がもう二度と傲り昂り、思い上がらないよう。



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