閑話 平等

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「ねぇ、君。いじめられてるの?」
随分、真っ直ぐな質問だった。不躾とも言う。仮に僕が本当に虐められていたとしていじめられているのかと真正面から聞くのはいかがなものだろう。今思えばこの時はもっと言い返すべきだった。けれど、その時の僕は彼女の言葉通り酷いいじめに辟易として無礼な人間に歯向かう気力すら持ち合わせていなかった。力なくその声の持ち主を確かめようと恐る恐る顔を上げた。ハニーブロンドの髪が彼女の後ろから照りつける太陽に当てられてきらきらと輝いている。そのヘーゼル色の瞳に写るのは紛れもない傷つき落ち込み身体を小さく丸め座る自分だった。
「ねぇ、聞いてるの?」
正直にいえば、その時彼女に見惚れていた。言葉を失って返事も出来ずにいる僕に彼女は呆れたように頬を脹らます。
「あのさ、私見たんだ。君があの教師に嫌がらせを受けてるところ」
見られていたのか。でも、だからってどうしてだろう。彼女の目は真っ直ぐに僕を見つめている。胸がざわざわとむず痒い。だが、痒いところには背が届かず思ったように彼女と会話することもできない。
「……何があったのか話してくれない?君の、助けになりたいんだ」
その瞼に悲愴を浮かべ彼女は僕にに言う。僕と違って勇気のある人間なんだと思ったがその瞳は今にも涙がこぼれ落ちそうで浅い呼吸がここまで聞こえてきそうだった。今の彼女からは想像もつかないかもしれないけれど当時の彼女は酷く内気だった。その彼女が僕に手を差し伸ばすのにどれほど勇気を振り絞ってくれたんだろう。でもその時の僕はそれに気づくことも出来ず見ず知らずの人間にそんな親切を働く優しい人間がどこにいるんだろうと彼女を疑った。なにか裏があるに違いない。僕は簡単に人を信じたりしない。そう考えたのは、あの女を信じたのが間違いだったからだ。たちまち僕はあの女の標的に回され陰湿ないじめを受けることになった。この子もそうかもしれない。この子も同じだったとわかった時、僕は。臆病者の僕は人の優しさを受け入れることすら怖かった。でも、彼女は僕に歩み寄ることを辞めなかったしいつしか僕は誰にも相談することの出来なかったその胸の内を彼女にだけは打ち明けることが出来た。それは救いだった。神がいるなら、神は僕のことなんて既に見捨てたのだと思っていた。でも違った。僕に彼女という存在を教えてくれた。ただ、運命は残酷だ。陰湿ならいじめは僕に手を差し伸べた彼女にも降りかかる。
いつだったか、彼女が僕に手を差し伸べたその場所で彼女はかつての僕のようにその身を小さく丸めて肩を震わせていた。僕は咄嗟にポケットのハンカチを彼女に差し出す。泣かないで欲しい。君が泣いていると僕も辛い。君は、笑っているのが似合うから。すまない。ってそんなことをたどたどしい口振りで伝えたら彼女はへらっと力なく笑ってくれた。無理をしている、無理をさせているのだということなんですぐにわかった。
その後、悪化していく現場に耐えきれず僕たちは人間が決して行ってはならない禁忌を犯す。そしてその罪を償うこともせず当時世間を騒がせていた人間へと擦り付けた。殺害を犯した貴族が当時連続凶悪殺人犯として恐れられていた切り裂き魔の殺害を偽造するのはよくある話の一つだ。僕の父はそれをなせるほどの貴族であった。たったそれだけの事だ。彼女と僕は到底抱えきれないほどの罪の意識を植え付けられる。人を1人殺したからだ。この世に正義など無いのだと、平等など無いのだと悟った。それでも、僕は祈ることを辞めなかった。殺人は神が定めた最も重い罪だ。到底魂が向かう先に神の元へはいけない。そんなこと許されない。地獄に落ちる覚悟はあった。ただ、彼女は別だ。いっそ2人で墜ちるなら、と思ったことも何度もある。でもそれは違う。彼女の髪は、僕が見惚れたあの柔らかなハニーブロンドはいつしか精神に負担を与えそれを真っ白に染め上げた。あの陽だまりのような笑顔は奪われた。僕を助けたことで。そんな理不尽なことがあってはならないから。どうか彼女だけは罪から救われて欲しいから。僕は神に祈ることを辞めなかった。
「貴方を殺さないと、あのことをばらすって……。あの人が私を脅したの。」
「本当はこんなことしたくないの。」
「でも、貴方は貴族だから罪が暴かれても言い逃れ出来るかもしれない。でも、でも。わたしは違う……」
「もし、もしも。私たちがあの教師を殺してその罪をお金で解決したなんて……ばらされたりしたら」
「…………私、どうしたら」
例え、彼女が僕を殺そうとしても。それで彼女が救われるならそれも構わない。それであの笑顔を取り戻してくれるなら、死だって怖くない。あの時、臆病だった自分は彼女のために勇気を振り絞ることを覚えた。あの時のリュンのように。
「そのナイフを僕に渡しなよ。君が僕を刺しても痛いのも、辛いのも君の方だよ」
だからそれを貸してと彼女の手に握られたナイフを奪うようにその手を伸ばす。だが、彼女はその瞳に涙を零しながら首を左右に降った。
「どうして、どうしてシドは……!」
どうしてそんなに優しいのかって。それは僕の台詞だ。
つかみかかった手を振り払おうとした時何が悪かったのかあろう事かナイフは彼女の右腕を深く切り裂いた。破られたアーマーカバーは隠していた彼女の聖痕を見せる。引っ掻き傷のようなそれは彼女を余計に苦しめた。それが嫌なのかカノジョは長袖を好んで羽織るようになり、いつしか見せることも無くなった。僕の頬についた聖痕と君の腕についたその聖痕には一体どんな意味があるんだろう。飛び散った液体はばしゃりと音を立てて壁にあたる。暗い部屋ではそのいろは確認できなかったが真っ赤な模様を部屋に描いているんだろう。僕はそれに呆気とられてしまった。
次の瞬間どくりと胸を突き刺す何かが内蔵を、肉を切り裂き押し潰し身体の中で存在を主張した。固い異物は彼女の手によって僕の心臓を何度も抉るようにしてぐりぐりと奥へ奥へと進む。それと同じように僕の足もじりじりと後ろへ後ずさった。どさりと膝がベッドのマッドレスにぶち当たるとバランスを崩した僕はベッドへと転がった。僕の胸に突き刺さる内部から彼女はようやく手を離し、膝を震わせながら僕から離れていく。その時には痛みで目がかすみ、彼女の顔はよく見えなかった。くぐもった嗚咽が押し殺すように僅かに聞こえる。泣いているんだって分かった。
「き、み……っ…はえが、おが…ぅ…にあ、う………よ」
胸に刺さったナイフの痛みなど彼女が受けた苦しみに比べればどうということは無い。過敏に負担を感じる彼女がこれからは楽に生きてくれればいい。掠れた声は無事に着い届いているだろうか。やけに晴れ晴れしい最後の視界には震える1人の女の子が見える。あの日、顔を上げた先で暖かく笑う女の子の面影はとうに残っていなかった。最後の最後まで自身の不甲斐なさに嫌気がさす。それでも、彼女が神に赦されるその時まで僕は祈りを捧げ続ける。真っ白なロザリオを力なく掴み何度も何度も祈った。例え、意識が途絶えようとも神に祈ることだけは決してやめなかった。どうか、彼女が救われますように。どうか彼女が……。
________
「我が神、我が神、なぜに我を見捨てたもうか」
独房というにはあまりに快適に用意された地下室の一室にリュン・フィーは備え付けの椅子に腰を落としていた。この部屋の本棚には1面聖書がビッシリと並べられていた。処遇が決まるまで出させて貰えないと最後に会ったシスターが言葉にしていた。自分がこの先どうなるか分からず恐怖するが、どちらにせよ自分はシドをその手で殺めてしまったのだから然るべき罰を受けるべきだと思えば平気だった。シドは神を大切にする信徒だったことを思い出して、本棚の聖書を手に取り何度も繰り返しそのページを捲った。シドは何を思ったのだろうか。私が、シドを殺すと言った時、彼は傷ついたのだろうか。生憎その答えはもう聞くことは出来ない。人を殺した罪人の扱いにしてはあまりに豪華なこの部屋では時間の経過はゆっくりと、しかし確かに進んでいた。この地下の部屋は常にランプの灯りがともされている為時計がなければ今が何時なのかすら分からなかっただろう。リュンは聖書の一文を読み上げ、ぼうっと時計を眺めた。そうしていると常に頭にはちらちらとシドのことばかり思い浮かべてしまう。頑丈に鍵がかけられているであろう部屋の扉を見つめ、自分の罰はいつ下されるのかと頬杖をつく。
あぁ、あの人は何がしたかったのか。私とシドになんの恨みがあるのだろうか。にこにこと微笑む裏にとてつもない重圧を感じさせるその人物のことをリュンは思い浮かべた。じわりと背中に冷や汗が伝う。
「時間だ。君の処遇が決まった」
突然開かれた扉の向こうにはフードを深く被った人物がいる。そしてその後ろには二、三人のシスター達が控えていた。いきなり音を立てて開いた扉にリュンは心臓を跳ねさせた。
「……………」
座り心地のいい椅子を離れ、扉の方へとゆっくりと向かう。処遇とは、一体なんなのか。いや、どんなものであれそれを受け入れる覚悟はできている。
フードの人物の目の前までたどり着くと、その人物は深く被っていた筈のフードを捲り上げた。リュンの淡褐色の瞳とその人物の瞳が交差する。
「どうして……貴方がここに……!!」
扉はまた音を立ててゆっくりと閉まる。リュンがこの部屋に戻ることは二度となかった。




動画



正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。
情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、 彼が私たちのために死んでくださったことにより、 神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ローマ人への手紙 5章7節、8節

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